ジャズはアメリカ南部のブルースを祖とするアメリカ生まれの音楽ジャンルですが、そのメロディーのルーツは世界の隅々まで広がっています。 1492コロンブス到達. やがて、アメリカ南部に移住してきた黒人の中から、ミュージシャンが生まれ、彼らによって、 ジャズの原型が生み出された のでした。 ジャズの歴史をジャンルでたどってみる. 20世紀初頭、ジャズの文化が生まれてから現在に至るまでおよそ100年の時が経ちました。クラシックなどに比べて音楽としての歴史は浅いジャズ。ですが、たった100年でジャズの歴史は大きく変化していき、様々なスタイルが生まれていきました。今回はそのジャズの歴史をざっくりとご紹介 … ポピュラー業界. ジャズの発祥は、20世紀初めのアメリカ南部にあるニューオリンズ[New Orleans]が中心であったとされています。 ニューオリンズ、またはその近郊では、ジャズあるいはジャズ関連の音楽を演奏するチャンスがたくさんありました。そこから、初期の有名なミュージシャンが数多く生まれたので … では、ジャズはいかにして世界制覇を成し遂げたのだろうか? その問いに応えるために、まずは1920年のアメリカへと時間を遡ることにしよう。その2年前に第一次世界大戦が終わり、平和な社会に対する期待と勝利による高揚感が相まって経済が一気に上向きになったことに加え、戦後の楽観的な空気に染まった若い世代が、個人レベルでの大いなる自由を求めるようになっていた。だが、これからはお気楽な快楽主義に根差した生活を送ろうという目論見は、新たな戦いを始めたアメリカ議会によってたちまちのうちに抑え込まれてしまう。それはまるで違う種類の戦争であった。人類の多くが抱える主要な悪癖のひとつを標的にした、道徳的聖戦である。1920年1月16日、犯罪や暴力行為や貧困率を減らし、アメリカ社会の生活水準を上げるという目的の下に、ボルステッド法が成立した。この法律は、アルコールの製造、販売、輸送、消費及び輸入を禁止するいわゆる禁酒法だ。, だが、歴史を見れば分かる通り――そして人間の習性として――禁止されればたちまち前よりもっと欲しくなるというのは当然の流れである。そんなわけで、結果的には禁酒法はその運用期間の13年の間、もっぱら増殖する密造酒造業者と組織的犯罪網による密売行為の触媒となっただけだった。禁酒法が施行されるやいなや、通称スピークイージーと言われる客に酒を出す違法クラブが雨後のタケノコのように後から後から営業を始めた。こうした‘邪悪の巣窟’(清教徒たちはそう呼んだ)では、酒は当たり前のように手に入り、まして金さえあれば、閉店まで飲み続けることも出来たのだ(警察に踏み込まれるまでの話だが)。, 無論、エンターテインメントはこうした酒飲み相手の店でも大いに需要があり、この放埓な快楽主義の時代に何より合っていたのが、エキサイティングで新鮮、シーンに出てきたばかりのシンコペーションがかったダンス・ミュージックで、ラグタイムとヨーロッパのマーチング・バンド・ミュージックとの間に生まれた私生児で、元は南部の娼家でアフリカ系アメリカ人たちによって生み出された音楽…そう、ジャズだったのだ。男性も女性も、1920年にようやく選挙権が認められたばかりの都会に暮らすアメリカ人の若者たちが、自分たちの個人としての自由を表現し、その解放感を自分なりの感覚で誇示したいと考えた時、彼らに率先して選ばれたのがジャズという音楽だったのである。あの時代、ジャズは革命のサウンドトラックだったのだ――あるいは、ごく控えめに言っても、祝祭そのものだったのである。, ジャズの台頭がアメリカ政府の禁酒法導入決定と切っても切れない関係であったことに加え、その隆盛を支えたのは、音楽そのものを世の中に広める上で絶大なる影響を及ぼすことになる、ある重要な技術的発展であるグラモフォン(蓄音式)レコードの登場だ。録音された音源というのは1877年頃から既に出回ってはいたのだが、フォノグラフ(レコード)・プレイヤーが本格的に普及し始めたのは1918年、再生可能なレコード盤製造の特許期間が終了し、どこの会社でもレコードを生産することが可能になってからのことだった。, だが、たとえ蓄音式レコードが発明されなかったとしても、20年代において紛れもなく最も重要なジャズ・マン、ルイ・アームストロングは恐らく何らかの方法で、後世にも知られる存在となっていたに違いない。ニューオリンズ近郊の貧しく荒廃した地域に生まれ、つつましく育ったルイ・アームストロングは、やがて世界で最も影響力のあり、明らかに最も偉大なトランペット奏者にまで昇りつめた。そして勿論、その黄金のトランペット・サウンドに加えて、彼は一度聴いたら誰もがそれと分かる、独特のクセのある歌声の持ち主だった。, ルイ・アームストロングが最初にレコーディングをしたのはキング・オリヴァー・クレオール・ジャズ・バンドで、1923年のことだったが、間もなく彼は独立してホット・ファイヴやホット・セヴンといったグループで世の中を大いに沸かせた。彼の当時最大のヒット曲は 「West End Blues」や「Potato Head Blues」だった。ルイ・アームストロングの人気は30年代に入っても衰えの兆しを見せることなく、1971年に亡くなるまでレコーディングとツアー活動をずっと続けていた。, キング・オリヴァーのバンドを離れた後、ソロとして活動を始める前の一時期、ルイ・アームストロングはニューヨークでフレッチャー・ヘンダーソンのバンドに合流した。元は化学者として研究所で働いていたが、音楽の方が実入りがいいことを知って転身を遂げたフレッチャー・ヘンダーソンはブルース・シンガーの伴奏を務めるピアニストから、やがて自身のジャズ・バンドを結成して20年代半ばにはビッグアップルでも屈指のホットな存在となっていた。フレッチャー・ヘンダーソンがこの時期出した中で最も人気を博したレコードは、快活な「King Porter Stomp」だったが、作曲家のジェリー・ロール・モートンによれば、この曲は20年も前に書きあげられていたのだそうだ。ジェリー・ロール・モートンはまた、1926年にリリースされたポピュラー・ナンバー「Black Bottom Stomp」の作家でもあり、曲と同名のダンスも大流行となった。, ルイ・アームストロング同様、デューク・エリントンも20年代に登場し、亡くなるまで長年その人気が衰えることのなかったミュージシャンである。都会的で垢抜けた、品の良いデューク・エリントンの音楽は、彼のパーソナリティをそのまま映し出すものだった。彼の名声は1927年、彼の率いるオーケストラがハーレムの有名なナイトスポット、コットン・クラブのハウス・バンドになったのを契機に一気に広まった。, だが、ジャズは決してアフリカ系アメリカ人たちだけの専売特許ではなかった。ビックス・バイダーベックやポール・ホワイトマンらをはじめとする白人ミュージシャンやバンド・リーダーたちも、早々にこの音楽をモノにし、それぞれ自分たちのスタイルを築いていった。その結果として彼らはアメリカ国内だけで多くのレコードを売り上げ、更なるジャズ人気の高まりに貢献したのである。, ハリウッド映画もまた、ジャズ人気の定着に力を貸し、アメリカにおけるそのカルチャー的な存在感を強固なものにする一助となった(奇遇にも、史上初の‘有声映画’は1927年のアル・ジョルスン主演による『ジャズ・シンガー』だ)。だが1929年10月29日、世界を激変させる事態の勃発が一気にジャズの時代の幕を引き下ろし、20年代の定義だったノンストップのパーティーを終わらせる。支払いを清算しなければいけないのに、金庫の中の金が足りなくなったのだ。結果として、アメリカ金融市場における株取引価格の史上稀にみる壊滅的な大暴落により“ブラック・チューズデイ”に起こったウォール・ストリートの破綻は、大恐慌と呼ばれる時代の引き金となったのだった。, それからの10年間、アメリカは深い不況のスパイラルへと真っ逆さまに堕ちてゆき、国内は経済的にも精神的にも荒廃の一途を辿った。だが、当時や幻の如く瞬間蒸発してしまった古き良き時代を連想させるものであったにも拘わらず、ジャズという音楽が廃れることはなかった。好景気に支えられた華々しいジャズの時代は公式には終わりを告げたにも拘わらず、30年代に入ってからもこの音楽の人気は高まるばかりで、それは恐らくそのアップビートなリズムが、現実世界の厳しい経済状態から一時的であれ目を逸らさせてくれたからなのだろう。実のところ、ジャズは以前にも増してビッグに大胆にもなっていったが、空前の不景気は各レコード会社にも大きな影響を及ぼし、皆そのために契約アーティストや制作予算を縮小せざるを得なかった。そんな状況でも、以前より大編成のアンサンブルで演奏される推進力の強いスウィング・リズムに主導され、ジャズはますます派手で奔放な音楽になっていった。もう一つの主流ジャンルであったブルーズを打ち負かす、これぞ輝かしき極彩色のジャズの力である。, 大恐慌は10年続いたが、この頃に生まれたジャズ・ミュージックの大半はアップビートで、ターゲットはもっぱら頭よりも脚の方だった。ビッグ・バンドのコンセプトはジャズの世界では特に目新しいものではなかった。既に20年代には既にアフリカ系アメリカ人(デューク・エリントン、フレッチャー・ヘンダーソンにジミー・ランスフォード)と白人ミュージシャン(ジーン・ゴールドケットとアイシャム・ジョーンズ)に率いられた大編成のアンサンブルがお目見えしていたのである。だが、ビッグ・バンドのサウンドが本格的に花開いたのは紛れもなく30年代のことだった。, 一部の人々にとって、スウィング人気が本格的に爆発したのは1935年8月の水曜日の夜だった。それはその夜、当時まだ殆ど無名の存在だったベニー・グッドマンというクラリネット奏者が、彼のバンドを率いてロサンゼルスのパロマー・ボールルームに出演し、シンコペーションの利いたホットなアレンジで観客を熱狂させたからである。ラジオという新しいマーケティング・ツールの助けも得て、ベニー・グッドマンはぐんぐんレコードの売り上げを伸ばし、間もなくキング・オブ・スウィングの称号をモノにした。実のところ、彼はビッグ・バンド・スウィングの生みの親というわけではないのだが、アメリカ国内におけるスウィング・フィーヴァーの導火線に火を点けたことは間違いない。, スウィング・ブームの爆発を先取りしていたバンド・リーダーのひとりが、20年代に自らのバンドでレコーディング・キャリアをスタートさせたカンザス・シティのピアニスト、ベニー・モートンである。20年代の終わり、ベニー・モートンはビル・ベイシーと言う名の若きピアニストをスカウトし、辞めることを申し出たチューバ奏者の代わりにベーシストを引き入れた。この一見すると何でもないような変化が、彼のバンド・サウンドの変革に大きな効果を挙げたのである。更により広義において重要だったのは、彼らがラグタイムや初期のジャズ・ミュージックの定義であった快活でシーソー的な2/4拍子の“ストンプ”調に替えて、よりスムースで洗練されたエレガントな曲調を導入したことで、それはあっと言う間に広まった。実のところ、30年代の間にビル・ベイシー(現在ではカウント・ベイシーという名の方がお馴染み)が追求し、磨きをかけていたのは、そのサウンドのごく初期のヴァージョンに過ぎなかったが、1937年には、推進力のあるスウィング・ビートと滑らかなブラスの掛け合いから成るカウント・ベイシーのサウンド・スタイルが完成をみていた。彼のこの時期における最もよく知られたレコーディングは、「One O’Clock Jump」や「Jumpin’ At The Woodside」といったところだ。, オリジナル・ジャズの貴族階級に属するデューク・エリントンは、20年代に既に大物だったが、その後の時代には更にビッグな存在になっていった。彼のバンドも増員され、サックス奏者のレスター・ヤングやジョニー・ホッジスら、当代きってのソロイストたちをフィーチャーした、精巧に作り上げられた楽曲のためのツールという役割を担うまでに進化していた。, スウィング全盛時代でこの他に重要な黒人バンド・リーダーと言えば、ジミー・ランスフォード、彼の優秀なバンドは一貫して高い評価を受けていた;1931年の「Minnie The Moocher」が代表曲のキャブ・キャロウェイは、特徴的なスキャット・スタイルを武器にしたカリスマ的ヴォーカリストだ。そして凄腕ピアニストのアール・ハインズは、華麗なスタイルでナット・キング・コールに絶大なる影響を与えた。またドラマーのチック・ウェブのバンドも、彼が後にきら星の如きキャリアを紡いでゆくことになるエラ・フィッツジェラルドを見出した人物であるという点において特筆すべき存在である。, だが、30年代のアメリカにおいて、ジャズを一般大衆に認知させ、このアフリカ系アメリカ人たちが起源の音楽を偏在化させる助けとなったのは、皮肉にも全員が白人のビッグ・バンドだった。, 我々は既にベニー・グッドマンについて言及したが、人気のビッグ・バンドを率いていた才能溢れるユダヤ人クラリネット奏者は彼だけではない。1938年にアメリカで空前の大ヒットとなった、コール・ポーターの不朽の名曲「Begin The Beguine」の決定版的ヴァージョンをはじめ、数々のヒット曲を出したアーティ・ショウもいる。, いま一人、スウィングしていたクラリネット・プレイヤーと言えば、30年代にトロンボーン奏者である弟のトミーと共にドーシー・ブラザーズ・オーケストラを率いたジミー・ドーシーだ。彼らは「Tomorrow’s Another Day」他、数多くのヒット曲を出していたが、兄弟はやがて仲違いして袂を分かち、1935年以降それぞれのバンドで活動し成功を収めている。トミー・ドーシーはタレント・スカウトとしても名うての目利きで、大勢の若いミュージシャンたちにチャンスを与えた。彼に目を掛けられた代表格と言えばフランク・シナトラ(後に別の高名なバンド・リーダー、ハリー・ジェイムスに引き抜かれる)とドラマーのバディ・リッチだろう。, ジミー・ドーシー同様、スウィングの達人グレン・ミラーもトロンボーン奏者で、30年代初期にドーシー・ブラザーズ・バンドに加入すると、彼はたちまちのうちに御用達アレンジャーとしての評価を固めた。グレン・ミラーは1937年に自らのバンドで活動を始めるが、商業的な意味で重要なインパクトを与えることになったのは、彼が2本のリード楽器を低音部からサポートする形で3本のサックスが近いハーモニーをプレイするという独特のサウンド・スタイルを完成させてからのことである。これは必勝のコンビネーションとなり、40年代が到来する頃には、グレン・ミラーは「Tuxedo Junction」 や 「Chattanooga Choo-Choo」といった数々のヒット曲と共に、ジャズ界を代表するお馴染みの名前となった。, ジャズ・ミュージックは大恐慌の暗黒の日々の中で、人々を鼓舞し、士気を高めるよすがとなった。大恐慌は公式には1939年に終焉を迎え、青々とした経済再生の芽があちこちに顔を覗かせるようになった。だが、それからすぐに、ジャズはまた別の新たなそしてもっと深刻な問題のサウンドトラックと化してゆく――第二次世界大戦だ。, 戦火が激化してゆくさなか、ジャズのレコード、とりわけビッグ・バンドは全米ポップ・チャートの主役となった。何しろ、1940年から45年前の全米チャートのトップは殆どがビッグ・バンドで占められており、その顔ぶれはジミー・ドーシー(9曲のNo.1ヒットを記録)、彼の弟トミー・ドーシー(4曲)、グレン・ミラー(9曲)、アーティ・ショウ(2曲)、ハリー・ジェイムス(8曲)、そしてウディ・ハーマン(1曲)という具合である。伝染性のダンスのリズムとセンチメンタルなバラードの絶妙なブレンドにより、ジャズ・ミュージックは人々の士気を大いに鼓舞した。またアメリカ軍が自前のUSOビッグ・バンドを抱えて部隊の慰問を展開したことも、更にジャズ人気を支えることになった。, だが、表面上はビッグ・バンド人気花盛りのように見えても、戦時下の経済状況の現実を鑑みれば、大所帯のアンサンブルがもてはやされる時代が続くはずがないのは自明の理だった。移動にかかる諸経費の増大で、ビッグ・バンドはツアーに出るのにも単なる維持費の上でも金がかかり過ぎる存在になっていたのである。更に事態を悪化させたのは1942年、全米ミュージシャン協会というパワフルな組合が、著作権印税のレートをめぐってレコード会社を相手にストライキを開始し、それが1944年まで続いたことだった。組合に所属するミュージシャンたちはひとり残らず、いかなる商業的なセッションでレコーディングすることも禁じられ、ラジオで演奏することも止められた。恐らくはこの一件が、ビッグ・バンドにとっては息の根を止められるトドメとなったのだろう。もっとも一部には、例えばデューク・エリントンやカウント・ベイシーのように、そんな状況もモノともせずに堂々と活動を続けられた者たちもいた、そして彼らはその後も長年にわたり繁栄を続けた(カウント・ベイシーの場合、リーダー亡き後でさえも ずっと続いている)。, 全米チャート上でも、大戦中の最後の2年間にはポップ・ヴォーカリストたちの台頭と隆盛につれて、ビッグ・バンドの影響力の衰えが如実に反映されている。ビッグ・バンド全盛時代、シンガーたちは通常サウンドのお飾りに過ぎず、ほんの数曲でフィーチュア・スポットを与えられる程度だったが、いまや彼らは自力で売り出せるようになっていた。ビング・クロスビー もフランク・シナトラも、元々はビッグ・バンドのシンガーとしてフィーチャーされて名を挙げ(ビング・クロスビーは30年代にポール・ホワイトマンの元で。フランク・シナトラは30年代末から40年代初期にかけて、ハリー・ジェイムスからトミー・ドーシーへと渡り歩いた)彼らはマイクロフォンの発明の恩恵を大いに蒙ったシンガーたちで、“クルーニング”と呼ばれる甘く優しい、親密な会話スタイルの唱法を得意としていた。, 1943年以降は男性クルーナーたちが急激に増殖するようになり、その女性版(ダイナ・ショア、ペギー・リー、ドリス・デイ)も同様にブレイクした。また、ミルス・ブラザーズやインク・スポッツといったヴォーカル・グループも大衆の支持を得て、チャートを彩るようになっていった。, こうした状況と並行して、インストゥルメンタル・ジャズの世界では革命が進行しつつあった。現場の人々はそれをビバップと呼び、それ自体は少人数のグループで演奏されるジャズという、ビッグ・バンド全盛期終焉後に流行り始めたスタイルだったが、皮肉なことに、ビバップが育まれたのはクルーナーのビリー・エクスタイン率いる大編成のアンサンブルだった。彼は自分のバンドに数人の先進的な考えを持ったミュージシャンたち、特にサックス奏者のチャーリー・パーカーとトランペッターのディジー・ガレスピーを雇い入れ、その彼らがやがて高等なハーモニーに重ねて強烈なスピードで即興演奏を行うという、新しい複雑なジャズ言語を開発し始めたのである。, ジャズにかつての機能的なダンス・ミュージックという役割ではなく、知的なアート・ミュージックという解釈が出始めたのはここからだ。ビバップはその大胆で斬新な符牒に耳慣れしていない人々にはあまりに過激でアヴァンギャルドに感じられたが、その影響力は40年代から50年代に入ってもいや増すばかりだった。, チャーリー・パーカーとディジー・ガレスピーの下で修業時代を送ったマイルス・デイヴィスという名のひとりの若きトランペッターが、ビバップの魔力に囚われ、自らのレコードを作り始めた。やがて彼は、後にモダン・ジャズと呼ばれる音楽スタイルの確立に絶大なる影響力を持つことになる。また同じ時期、セロニアス・モンクという何とも風変わりな名前のピアニスト兼作曲家が、ジャズ・ミュージックの真のオリジナルのひとりとして名乗りを挙げた。彼の最初のレコードにおける尖ったメロディと不協和のコードは、まさにユニークなサウンドとスタイルの反映だ。, 1948年のLPレコードの出現によって、ジャズ・ミュージシャンたちは延々続くインプロヴィゼーションのパッセージをフィーチャーしたより長尺かつより野心的な楽曲を演奏することが可能になりビハップの進化は更に加速した。メジャー・レーベル各社はこの新しい音楽に懐疑的だったが、1939年設立のブルーノートや、後にはプレスティッジ、リヴァーサイド、ヴァーヴといったジャズ愛好家たちが経営する小規模な独立系のレーベルが次々に現れてビバップの福音を広め、素晴らしいカタログを築き上げていった。, アルバムの時代に勢いを増したビバップではあったが、その先鋭的な実験性は必ずしも万人向きではなかった。そのムーヴメントが花開いたのはマンハッタンの52丁目などのあくまでニューヨークのジャズ・アンダーグラウンドで、メインストリームのレコード購買層のレーダーには引っかかってなかったのである。だが、それより多少冒険的要素が控えめで知的なジャズ・ミュージックは、まだまだヒットパレードで人気を博していた。ピアニストからシンガーに転向したナット・キング・コールは彼のトリオで実績を積み、1947年には全米ポップ・チャートで「I Love You For Sentimental Reasons」を首位に送り込んでいる。この曲に代わってNo.1の座についたのはカウント・ベイシーの 「Open The Door, Richard」だったが、甘い声のクルーナーたちが次第に勢力を増す中、40年代のハードコア・ジャズのヒット曲は実質的にこれが最後となった。, 50年代に入っても、アメリカのジャズ・シーンはまだ活況を呈していた。ルイ・アームストロング、デューク・エリントンにカウント・ベイシーといったベテラン勢は相変わらず第一線で活躍し、熱狂的なファンを相手に夥しい数のレコードとコンサート・チケットを売っていたが、ジャズ・ミュージックの進むべき進路を牛耳っていたのはビバップだった。その音楽の魔力に囚われた数多くの若く才能豊かなミュージシャンが、ディジー・ガレスピーやチャーリー・パーカーのように自分の楽器を縦横無尽に吹き鳴らしたいという野望を胸に、次々と参入してきた。, だが、ビバップがまだ巷のホットな流行である間に、ビバップでは自らのクリエイティヴィティにおいてやるべきことはやり尽くしたと感じていたマイルス・デイヴィスは、新たにクール・ジャズのコンセプトを打ち出す。これはビバップを多少マイルドにしたスタイルで、キャピトルから出た数枚のシングル曲が、後にすべて集められ、シーンの流れを一変させた1957年のアルバム『Birth Of The Cool(邦題:クールの誕生)』としてリリースされることになった。この画期的なアルバムは、50年代に大流行した西海岸の“クール・スクール”ムーヴメントの金字塔となり、その代表格のプレイヤーには、スタン・ケントン、ジェリー・マリガン、デイヴ・ブルーベックといった白人ミュージシャンたちも含まれていた。, カリフォルニアがクール・ジャズの首都として栄える一方、ニューヨークはハード・バップの鋳造工場と化していた。ハード・バップはウエスト・コースト・サウンドに比べて遥かに熱く激しく、ブルーズやゴスペルからの影響を引いているビバップの派生形である。ハード・バップの設計者の筆頭は、1954年にジャズ・メッセンジャーズを結成したピアニストのホレス・シルヴァーとドラマーのアート・ブレイキーだ。ホレス・シルヴァーがソロとしてのキャリアを求めてバンドを離れると、アート・ブレイキーはグループのリーダーを引き継ぎ、ホーンをめいっぱいフィーチャーした活気溢れるサウンドに、雷鳴の如く響き渡るポリリズミックなドラミングでパワーを注入し、やがてそのスタイルが、50年代において明らかな主軸となり、人気を博したジャズ・ミュージックのフォーマットたるハード・バップの本質を定義することになった。, 50年代の前半、全米チャートではクルーナー(甘く低くおちついて歌うボーカリスト)たちが幅を利かせていたが、その一部、中でもナット・キング・コール、トニー・ベネット、フランク・シナトラらはジャズのルーツやセンスを持った歌手たちだった。そして勿論、この頃のシーンにはビリー・ホリデイ、エラ・フィッツジェラルド、カーメン・マクレエ、アニタ・オデイ、ヘレン・メリルにジューン・クリスティ等々、実に大勢の女性ジャズ・シンガーたちが続々と登場していた(多くはビッグ・バンド全盛期からの生き残りだ)。, 1953年を境に、フランク・シナトラは驚くべき変身を遂げる。40年代には行に流されやすい思春期の若い女の子たちのアイドルだった彼は、50年代になると自らイメージ刷新に乗り出し、キャピトル・レコード所属のより洗練されたポップ・ジャズを歌う大人の表現者として、ネルソン・リドルやビリー・メイらの上品なアレンジメントを施した曲にその声を縁取らせた。, フランク・シナトラのレパートリーに選んだのは、その作品が『The Great American Songbook』として讃えられている卓越した作曲家たち、片端から名前を挙げるとすれば、ガーシュウィン兄弟、コール・ポーター、アーヴィング・バーリン、ロジャース&ハート、そしてハロルド・アーレンらによって書かれた精巧に作り込まれた佳曲ばかりだった。後に“スタンダード”と呼ばれることになる、この潤沢なマテリアルは、同時に多くのビバップ・ミュージシャンたちによっても取り上げられ、インプロヴィゼーションの格好の媒介物として利用された。, スタンダードの解釈において、とりわけバラード・ナンバーに関して、マイルス・デイヴィスを凌ぐ名手は存在しない。彼の繊細なトーンには、一度聴いたらいつまでも耳について離れない美しさが宿っている。マイルス・デイヴィスのキャリアにおける大ブレイクのきっかけは、1955年のニューポート・ジャズ・フェスティヴァルに出演し、観客を魅了するパフォーマンスでコロムビア・レコードとの契約を獲得したことだった。コロムビアでマイルス・デイヴィスは、サキソフォニストのジョン・コルトレーンをラインナップに加えたクインテットでモダン・ジャズを一気に前進させる。ジョン・コルトレーン自身もまた、革新者であり開拓者であり、50年代から60年代へと時代が進むにつれ、ジャズの世界でマイルス・デイヴィスと同等の絶大な影響力を持つようになった。, だが、マイルス・デイヴィスとジョン・コルトレーンがジャズ・ミュージックを新たな方向性に導こうとしていた矢先、音楽界にまたもや天変地異並みの一大事が起こり、それをきっかけに、ジャズは一気に音楽界における序列を下げ、世界で最もポピュラーで主要な音楽ジャンルとして君臨した長きにわたる治世を終えることになるのである。その一大事とはロックンロールという現象だった。1955年にそれが姿を現わした当初は、ティーンエイジャーたちが騒いでいるだけの単なる一過性の流行りモノだと誹謗されていたが、時が経ってもロックンロールはその勢いや魅力を失わず、それどころか世の中の大多数に認知される音楽として、ジャズを葬り去る兆しを見せ始めたのである。, ジャズの方も戦わずしてその座を明け渡したわけではなかった。皮肉なことに、歴代で最もセールスをあげたジャズ・アルバムであるマイルス・デイヴィスの『Kind Of Blue』がリリースされたのは、ロックンロールの人気が最初に盛り上がった時期に重なっているのだ。それは1959年のことであり、この年は他にも、デイヴ・ブルーベックの『Time Out』やオーネット・コールマンの『The Shape Of Jazz To Come』等、現在でもジャズの傑作として高い評価を得ている作品が数多く輩出されている。, 少なくともクリエイティヴな面で言えば、当時のジャズ・ミュージックは健全な状態だったと言えるが、その観客やリスナーの規模はたちまちのうちに縮小していった。60年代に入ると、ザ・ビートルズやブリティッシュ・インヴェイジョンの登場、それに続いて出現してきた膨大な数のポップ・グループと彼らを支持する絶叫型のファンたちの勢いに圧され、ジャズは更に支持基盤を削られていく。メインストリーム・ジャズの人気が更に落ち込むきっかけとなったのは、オーソドックスなメロディやハーモニー、曲構成を嫌う前衛ジャズの台頭だった。フリー・ジャズ、あるいはニュー・シングと名付けられたスタイルの首謀者は、オーネット・コールマン、セシル・テイラー、ジョン・コルトレーンにアルバート・アイラーらで、彼らの音楽はジャズ・コミュニティに分断と議論を生んだ。, これだけでも十分なところへジャズに更に深手を負わせたのが、60年代後期に登場したジミ・ヘンドリックス、ザ・ドアーズ、ジェファーソン・エアプレインといったどぎつくケバケバしいサイケデリック・ロックの旗手たちである。ジャズ・クラブは次々と閉鎖に追い込まれ、かつてはモダンさの象徴であったビバップは、いまや完全に過去の遺物となった。, この状況で、ジャズ・ミュージシャンに何ができただろうか? 一部の者たちは、アンプにプラグインし、時代思想を享受するところに活路を見出した。常に変化し続けることを好むマイルス・デイヴィスが、1970年の革命的なジャズ・ロック宣言『Bitches Brew』でやり遂げたのはまさにそれだった。この作品を契機に大勢のジャズ・ミュージシャンが彼に追随し、そこからフュージョンが生まれ、更にマハヴィシュヌ・オーケストラ、ウェザー・リポート、リターン・トゥ・フォーエヴァーといった後世に影響力を誇るバンドが生まれた。フュージョンはジャズのリバイバルに貢献し、一時は驚異的な人気を集めたが、70年代末には完全にその勢いを失ってしまった。, それ以降、ジャズ・ミュージック、特にインストゥルメンタルの派生形はほぼ少数派、好事家の興味の対象の範疇に留まったままだ。時折人気復活の兆しは散見されるものの、永く失われたままの王位の回復を見込ませる材料は見当たらない。だがカリスマ的なシンガー、グレゴリー・ポーターの台頭で、ここ最近のジャズはメインストリームでの健康的なチャート・アクションを取り戻しつつある。グラミー賞を受賞したキーボーディスト、ロバート・グラスパーもまた、ジャズとR&Bを結びつけるという独特のスタイルにより、メインストリームで大いなる存在感を示しているところだ。そして、2015年に鮮烈な登場の仕方で世界中の話題をさらったサックス奏者のカマシ・ワシントンも、スピリチュアル・ジャズやより難解なジャズのスタイルに対する興味を再びかきたてている。, ジャズ・ミュージックはもはや世界を統べる音楽ではないが、それでもやはり大きな影響力を持った音楽であり、ロバート・グラスパー、アンブローズ・アキンムシーレ、カマシ・ワシントンといった若き獅子たちは、80年代や90年代に数多くのヒップホップ・アーティストたちがジャズのレコードをサンプリングしていたように、ジャズに新しく若い世代のオーディエンスを取り戻すことでジャズ多大な貢献を果たしているのである。これはジャズの未来のためにもとても良い予兆だ。, 未来と言えばこの先はどうなるかという話だが、さて、どうだろう? もしかしたらいつか、ジャズが再び隆盛となり、王位を取り戻すといったそんな日が来るかも知れない。, 【全曲試聴付】最高のクリスマス映画を彩るサントラ・ベスト25 : 年末に欠かせない名画と音楽, 定番クリスマス・ソングの新アニメMVが公開:ビング・クロスビー、チャック・ベリー、フィッツジェラルド、シナトラ, ノラ・ジョーンズ、RECORD STORE DAY限定7曲入りLP『Playdate』の遊び心を詰め込んだ内容とは?, 【全曲試聴付】最高の男性ロック・シンガー・ベスト100:世界を変えた伝説のヴォーカリストたち, ビング・クロスビー「White Christmas」の裏側:史上最も売れたシングルでもあるクリスマス・ソング, ディズニー&ピクサー最新作『ソウルフル・ワールド』サントラ発売決定。ジャズ・ミュージシャン、ジョン・バティステが抜擢, 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ジャズからロック、プログレを彩るデザイナーとアーティスト; モダン・ジャズとボサ・ノヴァの出会い; ブルーノート:1939年以降のジャズ最高峰レーベル ジャズの歴史概略 ジャズの誕生 (1900年頃~1920年代前半) ジャズ草創期~新たな音楽を生んだ異文化の融合による「化学反応」~ スイングの時代(1920年代前半~1940年代前半) ジャズ成長期~スウィングの栄華~ ビ・バップからハード・バップ(1940年代~1960 ジャズの種類と歴史. ジャズ発祥の地と呼ばれる場所、それは、ルイジアナ州、ニューオリンズです。 1718年、フランス人によって開拓されたニューオリンズは、スペイン領から再びフランス領となり、1803年にアメリカ領となりました。 突然ですが、ジャズというアメリカが生んだ音楽は一体何なのでしょうか? 「何となくカッコイイ」「バーでかかっている音楽」「なんか難しそう」といった漠然としたイメージは持っているけれど、それ以上のことはよく分からない、という人が意外に多い。 それもそのはず、リアルタイムでジャズの巨人が演奏する音楽を聴き、ジャズ喫茶が巷に溢れていた時代はとうの昔に過ぎ去り、若者たちを虜にするのはロックやポップ … 保護中: アメリカの歴史とジャズ年表. NII論文ID(NAID) 110000198967. 1861南北戦争. NII書誌ID(NCID) AN00165529. mixiチェック. スピリチュアルズ(霊歌) フィールド・ハラー(労働歌) ミンストレルショー etc. ジャズは 19世紀末〜20世紀初頭にアメリカ南部の街、ニューオーリンズで黒人たちの間で自然発生的に生まれてきたもの だと言われています。 … 1890年以前. 一口にジャズといっても、様々なジャンルに分かれます。 いる人々がいる。ジャズ、ブルースのファンが多く存在することは周知の 事実だが、レゲエに代表されるカリブ音楽に熱中している中年層にも出会 うことがある。なぜ黒人音楽がそこまで日本人の生活に入ってきているの だろうか。黒人スタイルの髪型や服装をしている日本の若者たちに「な ジャズ(英: jazz)は、19世紀末から20世紀初頭にかけてアメリカ合衆国南部の都市を中心に発生した音楽ジャンル。 保護中: アメリカの歴史とジャズ年表 . サックス. アメリカ最古の歴史・フレンチマーケット フレンチマーケットは、ミシシッピ川のバーボンストリートなどがある一角「フレンチクォーター」の中心で開かれる200年以上の歴史がある . ツイート. ISSN 04200918. ジャズピアノ. 2018年時点でのルイジアナ州の総人口は約468万人です。第二次世界大戦が終わった直後から急激な人口増加が始まり、1985年までの40年間で倍増しました。アメリカの州別人口ランキングでは第25位のため、人口はさほど多いわけではありませんが人口を構成している人種に特徴があります。 ルイジアナ州の州民の構成はおおよそ60パーセントが白人、ヒスパニック系が5パーセント、残りの35パーセントはアフリカ系アメリカ人 … 一方ジャズは、アメリカ、ルイジアナ州のニューオリンズに1900年頃から始まったとされ、約100年の歴史がある音楽です。 その上で、クラシックとジャズの違いを説明すると、こうなります。 簡単にわかる! クラシックとジャズの大きな3つの違い 西洋楽器を用いた高度なヨーロッパ音楽の技術と理論、およびアフリカ系アメリカ人の独特のリズム感覚と民俗音楽とが融合して生まれた。演奏の中にブルー・ノート[1]、シンコペーション、スウィング、コールアンドレスポンス(掛け合い演奏)、インプロヴィゼーション(即興演奏)、ポリリズム(複合リズム)などの要素を組み込んでいることが、大きな特徴とされている。, その表現形式は変奏的で自由なものだった。また、初期からポール・ホワイトマンやビックス・バイダーベック[2]らの白人ミュージシャンも深くかかわり、黒人音楽であると同時に人種混合音楽でもあった。演奏技法なども急速に発展し、20世紀後半には世界の多くの国々でジャズが演奏されるようになり、後のポピュラー音楽に多大な影響を及ぼした。, 「ジャズ」という音楽の全体像を理解するためには、まずその多面性を認識しなければならない。他の音楽ジャンルと同様にして、ジャズにおいてもマクロな多面性である「革新的」側面と「保守的(特権的)」側面、「大衆的(商業的)」側面が混在し、それぞれの音楽性が相互に影響を及ぼしながら音楽の発展が成し遂げられていった。ジャズではその革新的側面が自由な音楽的表現による動的で熱気を帯びた黒人・社会的弱者寄りのカウンターカルチャー(反体制文化)の象徴としての一面であり、そして保守的側面がアダルティズムに則った静的で白人・富裕層寄りのクラシカル(権威主義的)な音楽としての一面、また大衆的側面が大衆音楽やポピュラー音楽としても発展した大衆文化の象徴としての一面であった。ただしジャズの保守性に関しては、聴き手の「富裕層」が娯楽に知識や教養を重視する伝統的な上流階級ではなく娯楽に本能的な快感(いわばグルーヴ感やスウィング感)を重視するブルジョワジーや有閑階級であったことから、大衆性と不可分な関係にある。, また他にも芸術面におけるミクロな多面性も考慮しなければならない。その焦点となるのは「モダニズム」と呼ばれる、公民権運動やヒッピー文化などのカウンターカルチャーとは方向性が異なった、芸術分野における反体制文化であり、その近代芸術運動におけるジレンマについても、ジャズの性質(特にモダン・ジャズ以降のジャズ)を理解する上では重要なキーポイントとなる。下記でも言及するが、要は"様式を否定し革新性を追求するという本来の意味での「モダニズム」(「前衛」と同義)の芸術運動が、後に特定の様式として定義・固定されてしまう"というジレンマを指し[3]、モダン・ジャズの理念における正当性とされていたその「大きな物語」の崩壊が1960年代におけるジャズメンたちの方向性を揺り動かした現象である(ジャズ史における「ポスト・モダン」への展開)。, ジャズの歴史においては、革新的な面が常にジャズミュージシャンたちの一種の原動力として働いていた。つまりは白人至上主義への対抗やマンネリズムの破壊、そして自由自在で流動的(クロスオーバー)な音楽性を探求する「前衛」の思想である。それが各時代毎にムーヴメントとして顕在化することによって、その都度新たな演奏スタイルが誕生し、ジャズをより幅広い音楽ジャンルへと変化させていくことになった。その中でも、1940年代におけるビバップの誕生は即興演奏の飛躍的発展として、また1950 - 1960年代における当時の反体制運動を支持する若者からの熱狂的な支持は若者文化との濃厚な接触として、ともにエポックメイキングなものとなった(後者についてはビートニクやジャズ喫茶、1960年代のカウンターカルチャー#ジャズも参照)。前者のムーヴメントによってジャズにおける「モダニズム」が確立し(後述)、そして一方で後者のムーヴメントによってジャズミュージシャンの中には「モダニズム」のジレンマから解き放たれ、西洋音楽の排除を目指したフリー・ジャズやロックとの融合を目指したジャズ・ロックなど、「ポスト・モダン」とも言える、音楽ジャンルや音楽イメージを超越した新たな音楽性が模索されていった。建築分野における「ポスト・モダン」の特徴である「多様性」「歴史性」「ラディカルな折衷主義」を主張するその傾向は、ジャズにおいても顕著に表れており、1970年代から現在に至るまで明らかな演奏スタイルの多様化と音楽性の揺り戻しが発生している(折衷主義はジャズの根本的性質でもあるが、1970年代以降はより過激なものとなった)。, またフリー・ジャズなどの革新的な面が如実に表れた演奏スタイルにおける音楽イメージは、エネルギッシュで混沌とした印象以外には、もはやこの世の事物では表現することのできない人知を超越した領域に達しているものも多く、大衆性・商業性には結び付きづらい面があり、現在でもジャズの中ではコアな部類として理解されている[4]。しかしながらこういった革新を追い求める姿勢こそが、ジャズを高尚で芸術性の高い音楽ジャンル[5]へとその価値を押し上げた大きな要因でもあり、またこの革新性が存在しなければ、"ジャズは死ぬ(ジャズがジャズではなくなる)"といったような意見もある[6]。, ジャズの保守的な面としては、白人や富裕層との交流にその起源がある。それは革新派による「進歩主義」や先述の「モダニズム」、保守派から受け継がれた「権威主義」や「装飾美術」など革新性と保守性があらゆる分野で混迷を極めていた、アメリカにおける狂騒の20年代を背景とする。その前兆が現れていた1910年代にクラシカルな編成であるビッグバンド(後のスウィング・ジャズ)が誕生すると、それを機にジャズクラブやジャズバーがニューヨークの各所で開店されていったが(ハーレム・ルネサンスも参照)、しかしコットン・クラブの実情にも表れているように、クラブやバーにおける演奏者は黒人でありながらも、その主な顧客は白人の富裕層であった。それがジャズを"裕福な白人(有閑階級)のためのサロン音楽(社交場音楽)"としても発展させていくことになる。演奏する際にはタキシードや高級テイラーのスーツを着用するなど、服装はあくまでもフォーマルなものが通例となり、また音楽性も都会的で洗練されたものが求められていった。あるいはクラブやバーは若者にとって縁遠い存在であったため、音楽性もそういった場所に集う人々の嗜好に合わせた静的なものとなっていった(これらの音楽性を方向付ける上で白人ジャズメンの存在は大きくあった。またその音楽性は1960年代におけるクール・ジャズの誕生、ボサノヴァとの融合にも貢献した)。あるいは白人や富裕層との交流は、ジャズに対して、"クラシック音楽という伝統的な枠組みの中で辛うじて獲得した表現の自由"といった捉え方をすることもできる。人種差別という社会的/文化的な抑圧下において、最低限の西洋の伝統的な様式・形式(アコースティック楽器の使用やスーツの着用など)に則った上で隠微な形で自己を表現したこの手法は、かつての黒人霊歌や後のゴスペルといった音楽、また「粋」「洒落」「ダンディズム」といった思想にも通じる(裏勝りの美学)。クラシック音楽とジャズは相対する音楽ジャンルとしてみなされることも多いが、実際には、上記のような捉え方に加え、モーリス・ラヴェルやエルヴィン・シュルホフ、ジョージ・ガーシュウィンをはじめとして、ベニー・グッドマン、レナード・バーンスタイン、スタン・ケントン、ガンサー・シュラー、ジョン・ルイス、マイルス・デイヴィス、ギル・エヴァンス、ビル・エヴァンスなどの音楽家によってその積極的な融合はジャズ誕生時から常に図られており、ジャンルの垣根は全く高いものではなかった(これがジャズの保守性を強固にした一因でもあり、そもそもビッグバンド形式はクラシック音楽に端を発している)。他にも富裕層に関連して"「クラシック音楽」や「ジャズ」は年収の上昇とともに「好き」の割合が高くなっていく"といった調査結果が出ている[7]。, 大衆的な面としては、まさしくジャズの大衆音楽としての側面を示している。一般的にジャズの誕生は、メインカルチャーや既存の文化への反抗がその発端として認識されていることが多いが、しかし実際はそれだけに留まらず、商業的に成功していたラグタイムやブルースからの音楽性を受け継いだことで、当初から大衆音楽として誕生した面も大いにあった。大衆文化に寄り添いまた商業性を意識した音楽性を持つこの大衆的側面は、1940年代のビバップの誕生まで保守的側面とともにジャズの主要な音楽性の一つとして存在しており、中でもビッグバンドやスウィング・ジャズは、先述のようにクラブやバーで演奏される富裕層のための落ち着いたサロン音楽としての役割(= 保守的側面)と同時に、ダンスホールで演奏される若者や労働者のためのより享楽的で退廃性が増したダンス・ミュージックとしての役割(= 大衆的側面)も担っていた。あるいはヴォーカル・ジャズ(英語版)も同様にして大衆からの人気を博し、ロックやポップスが誕生する以前のポピュラー音楽の一翼を担っていた。ただしそのジャズ・ヴォーカリストたちの方向性については、ポピュラー歌手/スターとして扱われたビング・クロスビーやフランク・シナトラ、ジャズメンとの共演が多かったビリー・ホリデイやエラ・フィッツジェラルド、実際にジャズ演奏家としても活躍したルイ・アームストロングやチェット・ベイカーなど、やはり多面的な様相が見られた。, 保守的側面から生まれた音楽性によってジャズは現在でも聴衆に「大人」「オシャレ」なイメージを想起させ[8]、またそれは大衆的側面との不可分な関係からカフェやレストランなど様々な場面で前述した雰囲気を与えるためのBGMとして利用されている。ジャズに対する一般的な音楽イメージについても、同じく保守性と大衆性の相互浸透から生まれたものである。いわば"高級な大衆音楽"とも言えるイメージを有し、ニューヨークやパリ、東京などの中層 - 高層建築物(摩天楼)が立ち並ぶ、無機質で人工的な、またアンニュイ(退廃的)でアーバン(都会的)な高級感の演出にしばしば利用される(R&B、ムード歌謡、フュージョン(後述)、AOR(AC)、シティ・ポップなどの誕生にも寄与した)。あるいは、ジャズの既述した都会的で洗練されたイメージとクラシック音楽やブルースに影響された叙情・哀愁・孤独といったブルーなイメージが融合し「クール」「ハードボイルド」といった男性像を連想させたり、狂騒の20年代におけるフラッパーなどの影響からジャズが「セクシー」「エロティック」といった女性像を連想させる場合もある(いずれも酒やタバコがそのアイコンとして用いられ、また前者のブルーなイメージに関しては"ジャズを表す色が青色"となった理由でもあり、"ジャズと雨の親和性の高さ"にも影響を与えた)[9][10]。, スウィング・ジャズからビバップへの展開において、それまでのジャズの主な音楽性であった保守性や大衆性に対して、革新性が大幅な干渉を図ったことでモダニティが先鋭化され、ジャズ史における「モダニズム」が確立された。それは"芸術音楽としてのジャズ"の誕生でもあった(シンフォニック・ジャズといったジャズを取り入れた芸術音楽は1920年代から存在していたが、あくまでもジャズの本流ではなかった)。アメリカのジャズメンの多くが1950年代以降に主要な活動拠点・マーケットをヨーロッパや日本といった国外にシフトさせていったのも、モダン・ジャズの誕生によってジャズの芸術性が高まったが故に、"ジャズを正当な芸術音楽として認識してもらえる"新たなエリアを開拓しようとした結果でもあった(前述したようにアメリカにおけるジャズの認識はあくまでもサロン音楽(BGM)やダンス・ミュージックの域を出ないものであった。因みにこの国外へのシフトは勿論人種差別の影響が前提として大きくあったが、また政治思想やプロパガンダの関与もあったことには留意である[11])。しかしその芸術性の獲得と引き換えにして、ミュージシャンらは"様式化による「前衛」の消失"(= 形骸化)という「モダニズム」のジレンマにも悩まされていくことになる。ただしその音楽性はしばらくは大幅な方向転換に至るということはなく、むしろ革新性と保守性、大衆性が見事にブレンドされたことでクール・ジャズやハード・バップなどの演奏スタイルを通じて順調に発展していき、そしてモード・ジャズにおいて芸術性と商業性の総合的な最大到達点に達した(名盤『Kind of Blue』の誕生)。これら一連のモダン・ジャズの演奏スタイルが全盛期となった1950 - 1960年代は"ジャズの黄金時代"として現在では認識されている(具体的な内容については#1950年代 - 1960年代を参照)。あるいはその「モダニズム」の確立が特定の時代区分としての「近代」を標榜する建築・美術様式への積極的なアプローチを促し、それによってアルバムジャケットにリード・マイルスやデヴィッド・ストーン・マーティン(英語版)をはじめとするバウハウスや未来派、キュビズムなどの抽象絵画に影響を受けたグラフィックデザインが数多く起用されたほか、モダニズム建築(インテリアデザインを含む)との親和性も向上した(BGMとしての用途の拡大に貢献。ラウンジから寿司屋まで)。しかしながら方向性を大幅に変えることなくその「モダニズム」のジレンマを「モダニズム」という概念の中で上手く回避してきた音楽性にもやがて限界が近づき、1960年代後半にはマイルス・デイヴィスやジョン・コルトレーンといったモダン・ジャズを牽引してきた大物ミュージシャンまでもが前述のように「ポスト・モダン」へと向かっていった。これはジャズ史における最大のターニングポイントとなり、"ジャズとは何か"が改めて再確認されるきっかけともなった。, これらの様々な音楽性は各々の演奏スタイルを持つミュージシャンたちによって現在まで脈々と受け継がれており(後述)、またそういった多面性に魅了される者は多く、他のポピュラー音楽やマニアックな音楽ジャンルとは異なった魅力、いわば"趣味性や幅広い音楽性・芸術性を持ちながらも大人らしく洗練された側面も持ち(ハイカルチャー的)、また程よくポピュラーで空気感との親和性も高い"音楽ジャンルとして、時代を問わず様々な層から一定の人気・需要を得ている。, 他にもジャズの文化的側面から派生して、高等で洗練された音楽を演奏しながらも自堕落で非道徳的な生活(違法薬物の乱用や不倫など)をしていたかつての一部ジャズメンたちが、伝記映画などで時に自滅型のアンチヒーロー像として描写されたり、あるいは、メインストリームを冷静に見つめながらも自身はあくまでも自然体で過去にも未来にも縛られることなく向上心のないような人物が、"ジャズな人"と呼ばれることもある[12][13]。, 他の音楽ジャンルにおけるジャズ要素を取り入れた楽曲は、「ジャジー(jazzy)」と形容詞的に表現されることがある。著名な例としてはスティングの『Englishman in New York』や石川さゆりの『ウイスキーが、お好きでしょ』、椎名林檎の『丸ノ内サディスティック』など。なおこの用語はジャズの派生ジャンルに属している楽曲にはあまり使用されず、あくまでもロックやポップス、歌謡曲など、全くの別ジャンルに属している楽曲に使用されることが多い[14]。, 「卑猥な意味をもつ」というイギリスの古語"jass(ジャス)"によるとする説や、19世紀からアメリカ南部の黒人が使っていた性行為などの性的意味、熱狂や急速なテンポ・リズムを意味するスラングの"jazz(ジャズ)"によるとする説、チャールズというドラム奏者の名がCharles→Chas→Jass→Jazzと転訛したとする説などがある。jassという言葉の意味は様々に変化し、1910年代のシカゴでは「快適」「ごきげん」といった意味のスラングになっていた。前記のような特色をもつ黒人音楽をジャズと称するようになった時期も明らかではない。作曲家のジェリー・ロール・モートンは、1902年に自分のピアノ演奏スタイルをジャズと名付けたといい、後年にジャズの創始者と自称したが、信じる者はいなかった。ジャズと称される以前は、ラグタイムと混同された形でラグタイム・ミュージック、またはラグと呼ばれていた。, 1916年にシカゴで活動していたジョニー・ステイン(英語版)をリーダーとする白人バンドが、jassということばにヒントを得てバンド名を"Stein's Dixieland Jass Band(ステインのディキシーjassバンド)"とし、これからジャズと称されるようになった、という記録がある。このグループはさらに"Original Dixieland Jass Band(オリジナル・ディキシーランド・ジャズ・バンド)"と改名、1917年1月に史上最初のジャズ・レコードを録音したが、そのレコードのラベルには"jass band"と印刷され、続く2月録音のレコードのラベルには"jazz band"と印刷されており、当時はスペリングが一定していなかったことがわかる。, 参考文献:小学館『日本大百科全書(ニッポニカ)』「ジャズ<語源>」(著・青木啓、2018年11月19日), ジャズは西洋音楽とアフリカ音楽の組み合わせにより発展した音楽である。スピリチュアル、ブルース[15]、ラグタイム[16]の要素を含み、ルーツは西アフリカ、西サヘル(サハラ砂漠南縁に東西に延びる帯状の地域)、ニューイングランドの宗教的な賛美歌やヨーロッパの軍隊音楽にある。アフリカ音楽を起源とするものについては、アフリカからアメリカ南部に連れてこられたアフリカからの移民(多くは奴隷として扱われた)とその子孫の人種音楽としてもたらされたとされており、都市部に移住した黒人ミュージシャンによってジャズとしての進化を遂げたといわれている。ラグタイムの有名ミュージシャンにはアフロアメリカンのスコット・ジョプリン[17]がいた。ラグタイムは1900年ごろから1920年ごろまで、人気の音楽となった。, ニューオーリンズが発祥の地[18]とされており、現在でもその語源ははっきりしない。20世紀初頭には、コルネット奏者の「アフロアメリカン」、バディ・ボールデン[19]がニューオーリンズで人気を博したが、ボールデンは1907年に活動停止し、本人による録音は残されていない[20]。, 1917年、ニューオーリンズ出身の白人バンドであるオリジナル・ディキシーランド・ジャズ・バンドが、ジャズでは初のレコードとなる、“Dixie Jass Band One Step”と“Livery Stable Blues”の2曲入りシングルをビクタートーキングマシンから発表。, 初期のジャズは、マーチングバンドと20世紀初頭に流行したダンス音楽に影響を受けており、ブラス(金管楽器)・リード(木管楽器)・ドラムスによる組み合わせの形態はこれらの影響に基づく可能性もある。初期は黒人が楽器を買う金がなく、白人が捨てた楽器を拾って演奏することもあった。ジャズが普及していった理由は、ラジオが1920年代末には、かなり多くの家庭に普及し、楽譜を売っていた音楽業界も、蓄音機の発明により、レコード産業へと発展していったことが大きかった。ラグタイムは、後のダンス向きなスウィング・ジャズへと交代していく。アメリカの禁酒法時代(1920-1933年)に地下化した酒場に集うミュージシャンによって、あるいはレコードやラジオの普及によって、ダンスミュージックなどのポピュラー音楽のスタイルがまだまだ渾然一体となっていた1920年代初頭にはアメリカを代表する音楽スタイルの一つとして、アメリカ国内の大都市に急速に広まった[18]。第一次世界大戦から大恐慌までのアメリカの隆盛期が「ジャズ・エイジ」と呼ばれるのはこのためである。1920年代にはイギリスでもジャズが流行り、後のエドワード8世も少年時代にレコードを収集するなど、幅広い層に受け入れられた[18]。, 1930年代には、ソロ演奏がそれまで以上に重要視されるようになり、ソロを際だたせる手法の一つとして小編成バンドが規模拡大してビッグ・バンドスタイルによるスウィング・ジャズが確立されるようになり、人気を博す。人気の中心となったのは、デューク・エリントン、ベニー・グッドマン、グレン・ミラー、カウント・ベイシー[21]、トミー・ドーシー、スタン・ケントンらのスウィング・バンドだった。人種的障壁で隔てられていた黒人ミュージシャンと白人ミュージシャンの媒介としての役割を果たしたクレオールも媒介役になった[18]。スウィング・ジャズはアレンジャーとバンドリーダーの立場がより重要視されるようになった。ルイ・アームストロングは、ジャズとヴォーカルとの融合において重要な役割を果たした。, その一方で、ソロを際だたせる別の手法として、アレンジを追求したスウィング・ジャズとは異なる方向性を求めたり、スウィング・ジャズに反発するミュージシャンにより、即興演奏を主体としたビバップ[22]等の新たなスタイルが模索されるようになる。1940年代初頭には、ビバップに傾倒するミュージシャンも増えていくが、1942年8月から1943年秋にかけて、アメリカで大規模なレコーディング・ストライキがあったため、初期ビバップの録音はわずかしか残されていない[20]。戦前に設立されたアルフレッド・ライオン[23]のブルーノート・レコードは弱小レーベルながら、ジャズの発展に大きく貢献した。, 50年代にはチャーリー・パーカー[24]やディジー・ガレスピー、セロニアス・モンクらによる「ビバップ」が誕生し、多くの録音を残した。ジャズの全盛期であった1950年代には、クール・ジャズ、ウエストコースト・ジャズ、ハード・バップ等の新たなスタイルが登場し、モダン・ジャズの流れを作り出すことになる。ナット・キング・コール、メル・トーメ、リー・ワイリー、ペギー・リー[25]らの歌手も、この時期活躍した。, 1957年、フランス映画『大運河』(監督:ロジェ・ヴァディム)でジョン・ルイスが音楽を担当し、サウンドトラックはジョンが在籍するモダン・ジャズ・カルテット名義の『たそがれのヴェニス』として発表。サウンドトラックを丸ごとジャズにゆだねたのは、伝記映画を除けば初のことであった。以後、フランスで「シネ・ジャズ」と呼ばれる動きが起こり、マイルス・デイヴィス[26]が『死刑台のエレベーター』[27](監督:ルイ・マル)に、セロニアス・モンクが『危険な関係』(監督:ロジェ・ヴァディム)に、アート・ブレイキー&ジャズ・メッセンジャーズが『殺られる』(監督:エドゥアール・モリナロ)に、ケニー・ドーハムが『彼奴を殺せ』(監督:エドゥアール・モリナロ)に参加。1958年には、アメリカ映画『私は死にたくない』(監督:ロバート・ワイズ)にジェリー・マリガンやアート・ファーマー等が参加し、以後アメリカでも、ジャズが本格的に映画音楽として使用されるようになった[28]。, 1950年代末期には、マイルス・デイヴィスの『マイルストーンズ』『カインド・オブ・ブルー』といった作品で、モード・ジャズという手法が試みられ、即興演奏の自由度が増す。一方、オーネット・コールマンやアルバート・アイラー、サン・ラらは、より前衛的で自由度の高いジャズを演奏し、1960年代になると、オーネットのアルバム名から「フリー・ジャズ」[29]という言葉が広まっていった[30]。また、ジャズ・ヴォーカルではビリー・ホリディ、サラ・ヴォーン、カーメン・マクレエ、エラ・フィッツジェラルド、ニーナ・シモン、アニタ・オディ、らも活躍した[31]。白人歌手のヘレン・メリル、ウテ・レンパーらも人気を集めた。, 1960年代前半には、ブラジル音楽のボサノヴァに注目するジャズ・ミュージシャンも多くなる。スタン・ゲッツは『ジャズ・サンバ』(1962年)をビルボード誌のポップ・チャート1位に送り込み[32]、翌年にはボサノヴァの重要人物(ジョアン・ジルベルト、アントニオ・カルロス・ジョビン等)との共演盤『ゲッツ/ジルベルト』を制作、グラミー賞のアルバム・オブ・ザ・イヤーを受賞。1965年には、ハンク・モブレーのカバーによる「リカード・ボサノヴァ」が、ジャズの曲として大ヒットし、スタンダード・ナンバーとして認知されるまでになる。カーティス・フラー、キャノンボール・アダレイやホレス・シルヴァー、ナット・アダレイ、ラムゼイ・ルイスらを中心としたソウル・ジャズ(ファンキー・ジャズ)も、50年代後半から60年代に人気となった。またリー・モーガンの「ザ・サイドワインダー」は大ヒットしすぎたために、ブルー・ノート・レコードが一度倒産状態になるという珍現象も見られた。, 1960年代までのジャズは、一部の楽器(エレクトリックギター、ハモンドオルガン等)を除けば、アコースティック楽器が主体だった。しかし、1960年代末期、マイルス・デイヴィスはより多くのエレクトリック楽器を導入し、エレクトリック・ジャズ・アルバム『ビッチェズ・ブリュー』をヒットさせた。同作に参加した多くのミュージシャンも、独立してエレクトリック楽器を導入したバンドを次々と結成した。, 70年代に入るとエレクトリック・ジャズは、クロスオーバーと呼ばれるスタイルに変容していく。この時期に大ヒットしたのが、デオダートの「ツアラトゥストラはかく語りき」である。さらには70年代半ばには、フュージョン[33]と呼ばれるスタイルに発展していく。フュージョンのリー・リトナー、ラリー・カールトン、アル・ディ・メオラらは、FMラジオなどでさかんにオンエアされた。スタッフ、クルセイダーズ、スパイロ・ジャイラ、ジョージ・ベンソン、チャック・マンジョーネ、グローバー・ワシントン・ジュニアらも活躍した。だが、フュージョンはそのポップ性、商業性、娯楽性からフリー・ジャズ、ビバップのアーティストやジャズ評論家、ジャズ・ファンの一部から強い拒否反応を受けた。これは商業か芸術かといった、普遍的な問題の表れでもあった。, 1990年代のジャズは特定のスタイルが主流になるのでは無く多様化が進んでいる。フュージョンの後継とも言えるスムーズ・ジャズがその1つである。ブラッド・メルドーはザ・バッド・プラスと共にロックを伝統的なジャズの文脈で演奏したり、ロックミュージシャンによるジャズ・バージョンの演奏を行なったりしている。90年代に入ってからも前衛的なジャズも伝統的なジャズも継承され演奏されている。, またハリー・コニック・ジュニア[34]、ダイアナ・クラール、ノラ・ジョーンズ、カサンドラ・ウィルソン、ホセ・ジェームス、ジェイミー・カラムなど、伝統的なジャズとポップスの音楽を組み合わせて人気を博したミュージシャンも登場している。電子楽器やロック由来の楽器をジャズに使用する動きは2000年代に入っても続いている。この流れはパット・メセニー、ジョン・アバークロンビー、ジョン・スコフィールド、ロバート・グラスパー・エクスペリメント、エスペランサ・スポルディング等に受け継がれている。2010年代になると、ヒップホップやファンクの要素が加わったケンドリック・ラマーとサンダーキャットのコラボのジャズラップなどが人気となり、カマシ・ワシントンのサックスも注目された。また、様々な音楽要素を融合させ、多数の楽器を使いこなすジェイコブ・コリアーのパフォーマンスも話題となった。, NHK『タモリのジャズスタジオ』において音楽評論家ピーター・バラカン氏が「ヨーロッパと日本がなければ、アメリカのジャズミュージシャンは生計が立たなかった」と述べた様に、ジャズプレイヤーにとって日本は重要なマーケットとなっており、多くのミュージシャンが来日公演を行なっている。日本にジャズミュージシャンとして初めて来日したアメリカ人は1952年、ベニー・グッドマン楽団で活躍したドラマーのジーン・クルーパである。翌年には、オスカー・ピーターソン、ベニー・カーター、エラ・フィッツジェラルドなどと共にジャズ・アット・ザ・フィルハーモニック(JATP)として再来日した(この一座にチャーリー・パーカーが参加し来日する予定もあったが結果的に実現しなかった)。その翌月にはルイ・アームストロングが初来日し公演を行っている。, ヨーロッパではイギリス、フランス、ドイツ、北欧などでもジャズが発展した。イギリスのケニー・ボールの「遥かなるアラモ」、クリス・バーバーの「可愛い花」などはよく知られている。フランスではシドニー・ベシェや、後のデクスター・ゴードンらがジャズを演奏した。北欧でもジャズが、盛んに演奏された。しかし、ヨーロッパの一部では、保守層やファシズム政権等で、「黒人音楽」「軽佻浮薄」な「非音楽」であるとしてジャズを排斥する動きも起こった。ナチ党に支配されたナチス・ドイツでは、反ジャズが政府の公式な見解となり、「斜めの音楽」(比喩:「変な音楽」)と呼ばれ1935年に黒人が演奏するジャズの放送が禁止されるなど、様々な条例が作られた。しかし当局によるジャズの定義があいまいであったため、ドイツ人演奏家によるジャズ演奏自体は行われていた。ナチスは、すでに大衆音楽として普及していたジャズを禁止することは得策ではないとして、娯楽放送や宣伝放送にジャズを紛れ込ませた[35]。, ダラー・ブランドがいたが、彼のジャズはアメリカのジャズとほぼ同じ音楽性だった。アフロ・ジャズ、アフロ・ディスコは、欧米や日本で考えられている、ジャズ、ディスコとは、サウンドが異なる。, 戦前の日本にすでに渡ってきていた舶来音楽、西洋音楽には、ジャズとタンゴがあった。初期のジャズ演奏家には、紙恭輔、南里文雄、井田一郎らがいた。井田は1923年に日本で初めてのプロのジャズバンドを神戸で結成した[36][37]。, ジャズの聴き手や演奏家には、都会人やブルジョワ階級の子弟が多かった。関西のプロたちが東京に流れた背景には1927年に警察が大阪市内のダンスホールを一斉閉鎖したことも一つの要因だった。当時のレコード業界はポリドール(1927)、ビクター (1927)、コロムビア(1928)と外資系の大手レコード会社が設立された。テイチクは、異業種参入組のキング(大日本雄弁会講談社のレコード会社)より更に遅い1934年だが、その年の12月に発売したディック・ミネの『ダイナ』がヒット。ダイナは最も多くカバーされた日本のジャズソングであり、榎本健一はパロディとしてカバーした。, 最初のジャズソングとされるのが二村定一がジーン・オースチンのマイ・ブルー・ヘブン[38]をカバーした『青空』で、1927年にラジオ放送された。レコードが発売されたのは翌年の1928年。A面が「青空」、B面が「アラビヤの唄」だった。また、ラジオ、レコードで企画を立ち上げる人間も必要になり堀内敬三が登場した。初期のジャズ演奏家である紙恭輔がコロムビアに関わった。, 1930年代のスウィングジャズは、時代の最先端であり、服部良一は1935年当時のデザインの流線型を題材にした「流線型ジャズ」(志村道夫)を世に出した[39]。しかし、1940年10月31日限りで日本全国のダンスホールは一斉閉鎖された。, 行政警察を管掌する内務省、映画や音楽を監督指導する情報局はジャズを「敵性音楽」として禁令[40]を出したが、抽象的過ぎて何の曲がジャズに含まれるか、音楽の素人である役人に判別は難しかった。また1943年1月にはジャズレコードの演奏禁止、更にレコードの自発的提出、「治安警察法第十六条」の適用による強制的回収などにより米英音楽の一掃を図ったが、北村栄治のように自宅でこっそり聴いていた者もいた。最終的には役人に協力する音楽業界の人間が、日本音楽文化協会、いわゆる「音文」(音楽界の統制団体)の小委員会の決定により、「ジャズの演奏は禁止」となった。こののちジャズメンの活動は各種の慰問団などへシフトしていく。, 戦前に活躍したジャズ・ミュージシャン、ジャズ歌手としては、二村定一、服部良一、淡谷のり子、ディック・ミネ、志村道夫、南里文雄、堀内敬三、川畑文子、中野忠晴、ベティ・稲田、井田一郎、レイモンド・コンデ、フランシスコ・キーコ、水島早苗、ハット・ボンボンズ、コロムビア・ナカノ・リズムボーイズ、あきれたぼういずらがいた。, 戦後、ジャズ、カントリー、ハワイアンなどのアメリカ音楽が、日本に入ってきた。進駐軍の音楽は、「ベース」で演奏された。戦後の日本のジャズの早い例には、ニュー・パシフィック・ジャズバンドがあげられる。弘田三枝子、伊東ゆかり、しばたはつみは少女歌手として、米軍キャンプで歌った。, 戦後は、服部良一が作曲したブギウギを笠置シヅ子に歌わせたことから始まる。江利チエミ、ジョージ川口、ティーブ釜萢(ムッシュかまやつの父)、ナンシー・梅木、世良譲などのすぐれた歌手、演奏家などが出、ジャズが大衆化した。一時期は、外国のポピュラー音楽をすべて「ジャズ」と呼ぶ風潮が広がったほどである[41]。また、ディキシーランドジャズ・バンドが数多く生まれている。, 鈴木章治とリズムエース、北村栄治らも音楽活動を始めた。宮沢昭、守安祥太郎らも活躍した。1956年に穐吉敏子が、1962年に渡辺貞夫がバークリー音楽院(現バークリー音楽大学)に留学[42]。1963年には松本英彦がモントレー・ジャズ・フェスティバルに出演する等、国際的に活動するミュージシャンも増えていった。八木正生、猪俣猛らも活躍した。, 1960年頃、アート・ブレイキーのモーニン(1958年発表)のヒットにより、ファンキー・ブームが起こった[43]。, 1961年に発足、翌年改名したミュージシャンたちの勉強会 新世紀音楽研究所(改名前はジャズ・アカデミー)に集った高柳昌行、富樫雅彦、日野皓正、菊地雅章、山下洋輔らが、毎週金曜日に銀巴里でジャムセッションを行った。日野皓正は、そこが自身の原点だと述べる[44]。, 1965年、ニューポートジャズフェスティバルに日本人ジャズシンガーとして初めて出演したのは、3日目のトリをビリーテイラートリオと一緒に出演した弘田三枝子だった。, 1960年代、70年代から日本でもフリー・ジャズが盛んになってくる。日本のフリー・ジャズの先駆者となったのは、阿部薫、高柳昌行らである。1970年代後半になるとフュージョン・ブームとなり、渡辺貞夫らもフュージョン・アルバムを出すほどだった。中央線沿線を拠点とするミュージシャンも多く登場し、1980年代後半、新星堂のプロデューサーが続に中央線ジャズという言葉を提唱した[32]。, 21世紀に入ってからも、H ZETTRIO、山中千尋、矢野沙織、寺久保エレナ、上原ひろみ、国府弘子、西山瞳、菊地成孔、小曽根真らが活躍している。, ジャズを聴きながら楽しむ喫茶店。日本で1950年代後半から流行り、1970年代から下火となる。, 「モダニズム」の2つの意味、また「前衛 」と「モダニズム」の意味・表現の違いの詳細については、こちらを参照→, 齋藤嘉臣『ジャズ・アンバサダーズ 「アメリカ」の音楽外交史』(2017年、講談社選書メチエ), 以下の3つの基準で禁止された。「1).旋律の美しさを失った騒擾的なるリズム音楽。2).余りに扇情的淫蕩的感情を抱かしめる音楽。3).怠惰感を抱かしめる様な退廃的或は亡国的なる音楽」(情報局・内務省共編「出版警察報」138号、1941年7月p64), 『jazzLife』(2010年7月号)p.55 ファンキー・ブームは世界のいくつかの国で起こり、フランスでのブームが最初。, http://www.simplifyingtheory.com/blues-scale-blue-note/, 高収入層は「アイドル」や「アニソン」を聴かない? 転職サイトが「音楽と年収」のアンケート結果を公開, http://www.allmusic.com/style/ragtime-ma0000004422, http://www.nps.gov/jazz/learn/historyculture/bolden.htm, https://www.allmusic.com/artist/count-basie-mn0000127044, http://www.allmusic.com/artist/charlie-parker-mn0000211758, http://www.npr.org/2008/02/13/.../nat-king-cole-the-singer, http://www.allmusic.com/subgenre/free-jazz-ma0000002598, http://www.discogs.com/Billie-Holiday-Ella-Fitzgerald, http://www.allmusic.com/subgenre/fusion-ma0000002607, http://www.discogs.com/Gene-Austin-My-Blue-Heaven/, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=ジャズ&oldid=80515566, 『ジャズの歴史 その誕生からフリー・ジャズまで』 Frank Tirro、音楽之友社、1993年。, 『新版 ジャズを放つ』細川周平、後藤雅洋、村井康司、寺島靖国、小川隆夫、西島多恵子、山下泰司、黒田京子ほか多数、洋泉社、1997年。, 『知ってるようで知らない ジャズおもしろ雑学事典 ~ジャズ100年のこぼれ話~』小川 隆夫、ヤマハミュージックメディア、2001年。.
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