両者のシングル対戦成績は、長州の4勝6敗1無効試合。 これは私の知る限りの戦績なので、 もしかしたら誤りがあるかもしれない。 そこはご了承願いたい。 ただし、お互い、どんなに相手に嫌悪感を抱こう … 1968年10月に日本プロレスに入門し(入門の経緯は後述)、1969年2月21日にプロレスデビューし、ユセフ・トルコの付き人を務める 。 アントニオ猪木が日本プロレスを除名された翌日である1971年12月14日に、藤波辰巳共々日本プロレスを退団し 、1972年3月に新日本プロレスの旗揚げに参加。 藤原喜明は長州力を襲撃? 前座レスラーだった藤原喜明さんが 脚光を浴びるきっかけとなったのは. 小川 直也(おがわ なおや、1968年 3月31日 - )は、日本の柔道家、総合格闘家、平成期のプロレスラー。. 日本プロ野球(npb)の詳細データを提供しています。2012年度分からの全試合結果、個人別成績、コース別成績、条件別状況別成績、観客動員、セイバーメトリクス、選球眼指標等公開しています。 2000年〜2013年の四天王/対抗・交流戦一覧: 1990年代に四天王対決を繰り返し行い人気を爆発させた四天王だったが、2000年のnoah旗揚げをきっかけに、他団体との交流が活発化。 また、藤波と長州の1997年8月10 日以来となる一騎打ちも決まった ...藤波全試合記録データベース19 最新エンタメニュースまとめ! : 藤波と長州はどっちが強かったんですか? 藤浪 晋太郎選手の年俸・背番号の推移について調査してみました。各年度の年俸や打撃成績・投球成績等も確認できます。2020年各出場試合成績も確認でき、打席ごとの結果も見てみよう。 藤波辰巳(60分時間切れ 引き分け)アントニオ猪木 「負けたら引退」と囁かれ、IWGP王者・藤波に猪木が挑戦した一戦は、白熱の名勝負の末、フルタイムドローとなった。 永遠のライバル、藤波と長州。この2人の決着はついたのだろうか? 俺が思うに、対戦成績でも圧勝しているドラゴン! 現在社長のドラゴン!それに比べ現場監督の長州! 最後の対戦もドラゴンが勝っているので、最終的な決着はドラゴンの 圧勝だと思うが! 長州 力(ちょうしゅう りき、1951年 12月3日 - )は、日本の元プロレスラー、及び日本と韓国のアマチュアレスリング選手。 山口県 徳山市(現:周南市)出身。. 毎年1月4日は「イッテンヨン」。新日本プロレスの東京ドーム興行が行われる日です。 今回取り上げるのは 1999年1月4日 東京ドーム 橋本真也vs小川直也 この一戦はプロレスファンの間で一大論争を巻き起こし、フツーの「名勝負」とは違うベクトルである意味、新日プロらしい「1 結果的にリーグ戦を制し、藤波への挑戦権を手にした猪木であったが“1988年のアントニオ猪木”はすでに崖っぷちに立たされていた。「藤波戦を最後に猪木は引退するのではないか?」と、ファンは自然と予感していた。, ■「もし僕が勝っていたら暴動が起きてましたよ」(藤波) 10月9日東京ドームで藤波と復帰戦を行い、その直後に新日本内に別組織「新日本プロレスリングzero」を作ろうとしたが、長州力らの反対にあった。 その結果橋本は11月13日付で新日本を解雇をされたため、直後に ZERO-ONE を設立し完全独立した。 「1・4事変」小川vs橋本戦 その①「対戦までの経緯」 その②「衝撃の試合展開」 その③「当時の私感」 その④「試合後の舞台裏ドキュメント」 に続く⑤は、この試合が巻き起こした余波編です。 試合翌日か … 新間寿の我、未だ戦場に在り!<獅子の巻>』(ダイアプレス、2016年)p37, 『日本プロレス史の目撃者が語る真相! 新間寿の我、未だ戦場に在り!<獅子の巻>』(ダイアプレス、2016年)p37-38, 『1945-1985 激動のスポーツ40年史 (6) プロレス 秘蔵写真で綴る激動史』P161(1986年、, 『日本プロレス史の目撃者が語る真相! 在日韓国人2世として生まれ、2016年に日本へ帰化した 。 韓国名は郭 光雄(かく こうゆう、クァク・クァンウン、 곽광웅 )だった。 猪木、藤波、長州。日プロでいえば、馬場、猪木、大木。大木が猪木に噛みつくようなものか。 ただ、長州が藤波に噛みついたのは、わかりやすい「対戦成績」がある。ワールドリーグ戦などの直接対決で長州は藤波に1度も勝っていないのだ。 しかし、今回は立場が違う。王者・藤波への挑戦権を争うリーグ戦で長州と対戦した猪木は延髄ラリアットで完璧に3カウントを奪われており、しかもその前日には6人タッグながらやはり長州からピンフォールを奪われている。 藤波辰巳(60分時間切れ 引き分け)アントニオ猪木 「負けたら引退」と囁かれ、IWGP王者・藤波に猪木が挑戦した一戦は、白熱の名勝負の末、フルタイムドローとなった。 鶴田>天龍>藤波>長州 3 ... 鶴田と天龍の対戦成績ってどうだったっけ? どうしても天龍がパワーボム2連発で勝った試合の印象が 強いんだけど、逆に鶴田が脳天を叩きつけるパワーボムで 鶴田>天龍=藤波>長州 ... 鶴田と天龍の対戦成績ってどうだったっけ? どうしても天龍がパワーボム2連発で勝った試合の印象が 強いんだけど、逆に鶴田が脳天を叩きつけるパワーボムで 「猪木さん自身も引退を間近にして、きっと心のどこかで『選手として燃え尽きたい』『出し切りたい』というものがあったと思うんですよね。だから僕が感じるに、あのときは猪木さんが最後に燃え尽きた試合だったと思います」(藤波), 何度も言うが、この試合は60分フルタイムドローという結末に終わっている。これは、王者・藤波が防衛に成功した形だ。 藤波 辰爾(ふじなみ たつみ、1953年 12月28日 - )は、日本の男性 プロレスラー。 カートプロモーション所属 。 本名・旧リングネーム:藤波 辰巳(読み同じ)。大分県 東国東郡 武蔵町(のちの国東市)出身。 ニックネームは「ドラゴン」。 第77代nwa世界ヘビー級王者。 目的に設定されたアフィリエイト宣伝プログラムである、Amazonアソシエイト・プログラムの参加者です。, “名勝負製造機”藤波辰爾のベストバウトは、誰が考えてもアレしかない「週刊実話」シリーズ「俺の名勝負」. 藤波辰爾のヒストリー!テレビ公開された自宅は大豪邸! 藤波辰爾の壮絶なプロレス人生! プロレスラーの藤波辰爾(ふじなみたつみ)は、1953年12月28日生まれで、本名は藤波辰巳です。藤波辰爾のヒストリーを辿るとするならば、一冊の本では足りないでしょう。 プロレスファンに聞いたら、誰もが予想するであろうアンサーだ。藤波辰爾の生涯における最高試合は、絶対にこの師弟対決しかありえない。, 当時の時代背景を簡単に説明しておきたい。遡ること3年前、1985年に藤波はタッグマッチながら猪木から3カウントを奪取している。しかし、ドラゴンスープレックスが炸裂し、レフェリーのミスター高橋がマットを3回叩いた直後、猪木がふと見せた哀愁の笑みは余計にファンを虜にさせてしまう。この一戦でファンに世代交代を印象付けることは難しく、藤波自身も「それで猪木超えを果たしたという気持ちはなかったですね」とコメントしている。, しかし、今回は立場が違う。王者・藤波への挑戦権を争うリーグ戦で長州と対戦した猪木は延髄ラリアットで完璧に3カウントを奪われており、しかもその前日には6人タッグながらやはり長州からピンフォールを奪われている。 ・直接対戦成績 ・交流戦18試合のtqb((得点/攻撃イニング)-(失点/守備イニング))が大きいチーム ・交流戦18試合のer-tqb((相手自責点による得点/攻撃イニング)-(自責点/守備イニング))が大きいチーム ・交流戦18試合のチーム打率 前回のジュニア・ヘビー級編に続いて、今度はヘビー級編となった藤波辰巳の激闘ベスト5。まずはそのラインナップから見ていきたい! 1.1983.4.3蔵前 WWFインター選手権 vs長州力. 新間寿の我、未だ戦場に在り!<獅子の巻>』(ダイアプレス、2016年)p40, 東スポの記事を読んで初めて自社の動きを知ることがあった。また2002年に長州力が退団したときも、「そんな話は聞いてない」と驚いたという。, マスコミや選手の一部からは「コンニャク(社長)」、「(ニックネームの“ドラゴン”をもじって)ホラゴン」と揶揄された。, 『日本プロレス史の目撃者が語る真相! 闘魂の残り香は、消そうと思っても消せるものではない。, twitterやFacebookをフォローすることで、 最新セール情報や、期間限定割引情報などが チェックできます。, アオシマ書店は、amazon.co.jp を宣伝しリンクすることによってサイトが紹介料を獲得できる手段を提供することを 経歴. 防衛戦. 毎年1月4日は「イッテンヨン」。新日本プロレスの東京ドーム興行が行われる日です。 今回取り上げるのは 1999年1月4日 東京ドーム 橋本真也vs小川直也 この一戦はプロレスファンの間で一大論争を巻き起こし、フツーの「名勝負」とは違うベクトルである意味、新日プロらしい「1 テレ朝チャンネル2で放送されている、ワールドプロレスリングオレの激闘!ベスト5の大仁田厚編、天龍源一郎編、前田日明編、藤波辰爾編、長州力編、川田利明編、アントニオ猪木編、獣神サンダーライガー編のカードと内容を紹介します。 そんなことはない。ファンはある種の覚悟を胸に会場へ足を運んでいたはずだ。しかし、今から考えると、やはりこの一戦は「時間切れ引き分け」が最高のハッピーエンドだったように思う。, その後、“飛龍革命”を推進する藤波は89年に腰の故障で長期欠場へ突入。一方の猪木は1998年まで現役を続け、東京ドームのドン・フライ戦で最後の花道を飾っている。ただ、正直な気持ちを言うと「猪木は藤波戦で引退していれば良かったのに……」と心に秘めた往年のファンは少なくないだろう。, とは言え、やっぱり猪木は凄い。というのも、今回の藤波が選んだベストバウトは猪木戦で、前回の天龍が選んだベストバウトも実は猪木戦なのだ。 ANNIVERSARY FINAL〜」を後楽園ホールで開催、新日本プロレスに縁のある藤原喜明、ウルティモ・ドラゴンなどが参戦[33]、メインでは長州力&初代タイガーマスクと組み、蝶野正洋&ヒロ斉藤&AKIRAのTEAM 2000と対戦、リングアナは田中秀和、レフェリーは北沢幹之が務め、サプライズゲストとして前田日明、師匠のアントニオ猪木が来場した[33]。また、同大会の模様や藤波本人、及び有名選手のインタビューを交えた初のオフィシャルドキュメンタリーDVD「最後の飛龍 藤波辰爾」を自らの事務所シーホースコーポレーションより発売した。, 2012年4月20日の大会終了直前に藤波の長男藤波怜於南がプロレス入りを直訴したが、直ぐには結論を出せないと承諾を保留にした[34]。その後承諾し、ランカシャースタイルを習得させる為に旧ビリー・ライレージムことアスプルオリンピック・レスリングクラブに武者修行に出し[35]、帰国後はデビューを目指しU.W.F.スネークピットジャパンで修行中[36]。その後怜於南は2013年5月29日のドラディション後楽園ホール大会のエキシビジョンマッチでプレデビュー戦を行った。, 11月19日、怜於南は藤波のかつての付き人だった船木誠勝を相手にデビューすることが発表された[37]。その本格デビューを前に、怜於南は自らのリングネームを『LEONA』とすることを発表。将来的には本名の藤波怜於南で戦う意思があることも明らかにしている[38]。, そのデビュー戦等を含んだDVD「藤波辰爾還暦記念 藤波怜於南デビュー記念 藤波辰爾×LEONA BEST BOUT 2012 - 2013」が発売されている。, 2015年3月、WWE ホール・オブ・フェームに迎えられた(インダクターはリック・フレアー)[1][39]。日本人ではアントニオ猪木に続き2人目の殿堂入りである[40]。, 2015年9月、全く足が動かなくなるほどの腰椎のヘルニアと狭窄症により手術を受けた。手術は神経をいじるものであったため腰に多少のしびれが残った。1989年の負傷で同様の症状が表れたが、その時は腰にメスを入れたら選手生命が終わる時代であったため多少自分で運動して周りの筋肉で保護しながら騙し騙しやっていた[7]。毎試合前に痛み止めの座薬を投与していたことも明かされた。, 2017年4月にデビュー45周年記念大会を後楽園、博多、大阪で開催。10月27日には東京・後楽園ホールで、29日には大阪・ATCホールで大会を開催。藤波はこの大会に関して「いまのドラディションは試合数が限られている。自分が団体を率いて試合するのは、通常の大会をやっても意味がない。自分がやる大会はファンがいまのプロレスとは違った思い、違った楽しみを抱いてくれる大会。それをいちばん意識してます」と専門誌の記事上で答えている。事実、29日大会では、ミル・マスカラスや長州力など従前では考えられないメンバーで3人タッグを組んでいる。長州は今までオファーしても「時間をください」と保留していたが、今回はカードを言ったら異論を言わず「やる」と答えた[41]。このシリーズでは、かつて名勝負を繰り広げたビッグバンベイダーを日本に呼び、試合を行った。当時のベイダーは心臓病で余命2年の宣告を受けており、実際、この試合から1年余りで急死してしまうことになった。, 2018年6月、田村和宏とタッグを組んでプロレスリングHEAT-UPのユニバーサルタッグ王座を獲得[42]。, 2020年1月4日、古巣である新日本プロレスの東京ドーム大会に獣神サンダー・ライガーの引退試合のパートナーとして久々の出場。ライガー、ザ・グレート・サスケ 、タイガーマスクとタッグを組み、佐野直喜、大谷晋二郎、高岩竜一、田口隆祐組と戦った。, 自らのキャッチフレーズであるドラゴンの名を冠した多くのオリジナル技を持つ。これらは総じて「ドラゴン殺法」と呼ばれている。また、猪木の卍固めや長州のサソリ固めなど、いわゆる「掟破り」を使用し試合を演出した。, 『週刊プロレス』別冊「創刊25周年シリーズ」Vol4.『日本歴代プロレスラー名鑑』pp15, 『日本プロレス史の目撃者が語る真相! 2月16日に後楽園ホールで開催される武藤敬司(55)プロデュースのプロレスリング・マスターズ大会で、蝶野正洋(54)が“リング復帰”を果たす。 当時は、藤波辰爾(当時:藤波辰巳)はwwfインターナショナル・ヘビー級王者 であり、長州力はuwa世界ヘビー級王者であったが、2人の対戦成績は藤波の6勝0敗であり、人気実力ともに明らかに藤波が上 … vs 藤波辰爾天龍源一郎 ... vs 長州力 佐々木 健介 . 両者のシングル対戦成績は、長州の4勝6敗1無効試合。 これは私の知る限りの戦績なので、 もしかしたら誤りがあるかもしれない。 そこはご了承願いたい。 ただし、お互い、どんなに相手に嫌悪感を抱こう … 2000年〜2013年の四天王/対抗・交流戦一覧: 1990年代に四天王対決を繰り返し行い人気を爆発させた四天王だったが、2000年のnoah旗揚げをきっかけに、他団体との交流が活発化。 新間寿の我、未だ戦場に在り!<獅子の巻>』(ダイアプレス、2016年)p39, 月刊ビッグレスラー 1982年10月号P114-119 『まだら狼上田馬之助のレスラーぶった斬り』(, 月刊ビッグレスラー 1982年11月号 『レスラー・ドキュメント炎の飛龍 第9回』(, The WCW matches fought by Tatsumi Fujinami in 1976, The WCW matches fought by Tatsumi Fujinami in 1977, NWA International Junior Heavyweight Title, NJPW 1979 The 2nd Madison Square Garden Series, NJPW 1980 The 3rd Madison Square Garden Series, NJPW 1978 The 1st Madison Square Garden Series, NJPW 1981 The 4th Madison Square Garden Series, WWE殿堂入りの藤波が「夢にまで見た名誉」「現役で選ばれたのは大きい。大事にしたい」「KENTAとも1回組み合いたい」と喜びの弁, 「藤波辰爾デビュー40周年・ファイナル 40th.ANNIVERSARY FINAL」, 藤波辰爾、6年ぶりのベルト奪取!タッグ王座獲得に「まさか64歳でベルトを巻くとは」, “【藤波辰爾45周年ヒストリー】(39) ドラゴンストップ 2001年1月4日、東京ドーム”, http://www.hochi.co.jp/sports/etc/20170324-OHT1T50157.html, [TGS 2017]「龍が如く 極2」に5人の伝説的レスラーが参戦し,主人公桐生一馬の前に立ちふさがる, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=藤波辰爾&oldid=80387347, 本人曰く、自分は喧嘩をしたこともないほど暴力的な性格ではなく、家族や周りも暴力的ではなかったとのこと。それだけに戦う仕事であるプロレスに惹かれた理由が自分でも全く分からないと自伝で述べたことがある。, 「プロレスは、相手との信頼関係があるからこそ、やれるんです。」という藤波の言葉が表すように、相手選手の長所を引き出すことに長け、名勝負製造機とも言われた。その技量はフレアー、マードック、ベイダー、長州、天龍、前田、蝶野、武藤といった多くの選手たちから絶賛されている。また、ストロング・スタイルの正統派レスラーと見なされているが、流血や乱入といった荒れた試合も自然にこなせる力量も兼ね備えていた。, アメリカ修行中はカール・ゴッチの弟子ということで、シューター、壊し屋ではないか、と警戒された, 藤波が新日本の若手でWWWFのジュニア時代の若手の伸び盛りである1979年頃、ホープである藤波を盛り上げようとするイベントが, 相手の必殺技を盗む「華麗なる盗人」と言われ、「名勝負数え歌」と言われた長州力戦でみせる長州力の得意技“サソリ固め”を逆に仕掛ける姿は、当時の実況担当, 両足を揃えたまま完全な仰向け状態にジャンプして放つ昔ながらのドロップキックスタイルは、失敗するとバックドロップを受けたように背中から後頭部にかけてをキャンバスに強打(一人バックドロップ)するため、「ジバック(自爆)ドロップキック」と言われ、ファンに失敗を期待させた。また、対, なお、この「マッチョ・ドラゴン」発売について、当時タッグパートナーであり、先に「らしくもないぜ」というレコードを発売していた, 頻繁に引退宣言をしては撤回することが多い。本来、引退へはカウントダウンだがカウントアップしており、この点において師匠アントニオ猪木の回数を上回っている。, 藤波が長年ライバル視していたジャンボ鶴田は、引退会見で藤波とのシングル対決がついに幻になった事に対して「藤波君はいつもマスコミを使って対戦を主張してくる。僕はそれが大嫌いだった。馬場さんも彼とのシングル対決は承諾してくれていたんだし、直接僕か会社(全日)に電話なりしてくれればよかったのに」と発言しており、また鶴田は最初からヘビー級で藤波はジュニアヘビー級出身ということもあり「元々体格が違うから」とも発言し、鶴田自身は藤波とは積極的に対戦したかったわけではないようだ。だが後日、鶴田は藤波に「失礼な発言をしてしまった」と、, 社長時代、2001年の東京ドーム大会の橋本真也vs長州力戦において、橋本・長州とも互いにフォールしようとせず打撃技のみのKO勝ちを狙おうとしたため、試合中TV解説席から藤波がリング上のタイガー服部レフェリーに両手を×の字にクロスして試合中止を決めた。この一件は試合を中継していたテレビ朝日の放送席にて同席していた解説者の, 飛龍革命の中で猪木に張り手を食らった後に猪木に張り手を打ち返した際、何かを叫んでいたのだが、後に, 伽織夫人は資産家の娘でもあり、資金難に喘いでいた新日本プロレスは随分と夫人の実家にお世話になったらしい。夫人は後に2017年に夫婦で共に受けたインタビューにおいて、新日本の選手離脱事件が起こった際に協力したことについて振り返っており、もしものことがあれば当時東京にあったマンションを売って2人で実家に戻ってもよいかと実家の家族に話したことなどを明かしている, 夫人との結婚のきっかけは「寝屋川で行われたチャボ・ゲレロ戦」と言われているが、夫人が2017年に語ったところによると、最初の出会いは真夏の暑い時期に大阪府立体育館に初めてプロレスを観戦した時である。夫人は弟に勧められてプロレスを観戦しに来たが、七三分けの藤波を見て「こんな人がいるんだ!」と驚いたという。試合ぶりもきれいに見えたようであり、夫人はそこからファンになって大阪スポーツを毎日買うようになったという。その後、プロレス雑誌やチケットを買うなどすっかり藤波のファンになった夫人は初めて藤波を見た半年後にまた府立体育館に行ったが、初めて来たことを覚えていた藤波からナンパされて交際に至った。しかし藤波は新間寿から「付き合い始めてから3年は結婚してはだめだ」という趣旨の忠告を受けたが、藤波は3年を待たずしてある日の夜12時に夫人へプロポーズの電話を入れた。藤波は結婚を反対されたら新日本プロレスをやめるという勢いであったという, 1990年、まだ藤波がヘルニアのリハビリを行っていたころ、霊能者に霊視してもらったらその霊能者は「おたくの犬が死にますよ。その子が亡くなって藤波さんが良くなる」と言った。藤波は「家族の一員である犬を、身代わりや生け贄のように言うな」と腹を立てたが、実際に2ヶ月ほど経過した頃に飼っていた犬は肝細胞がんで死に、ちょうどその頃から藤波のヘルニアは快方に向かった。このことは2017年3月に藤波夫妻が『KAMINOGE』のインタビューで明かした, 新日本プロレス社長時代も、オーナーのアントニオ猪木に相談したところ、自民党公認であること(猪木はスポーツ平和党=会派は, 『永久保存版★デビュー40周年記念 藤波辰爾★炎の40周年』 ベースボール・マガジン社、2012年. 1997年6月5日(木) 日本武道館 ... 自分だけの選手を育てて、新日本プロレスのレスラーと対戦しよう! 長州 力(ちょうしゅう りき、1951年 12月3日 - )は、日本の元プロレスラー、及び日本と韓国のアマチュアレスリング選手。 山口県 徳山市(現:周南市)出身。. しかし、藤波はこの先も“猪木超え”を果たせずじまいであった。この点が、ライバルの長州とは異なる。 一転、プロレスにおいては最上の褒め言葉として機能する。あの選手と闘えば、満足な試合へ到達することができる。地力以上のものを発揮することができる。天才肌にのみ許された特性を持つ選手は、他者からのラブコールがひっきりなしになる。無闇に的にされてしまうのだ。, 藤波辰爾(辰巳)ほど、多くの者からライバル視されたレスラーはいない。長州力はもちろん、木村健悟(健吾)、剛竜馬、ビッグバン・ベイダーが、藤波のことを“恋人”だと捉えていた。 「改めて思うのが猪木さんのすごさですよ。あのとき45歳、それもいろんな障害というか負担を抱えている中で、60分間の最後まで闘志や動きが衰えることがなかったんですから」 鶴田>天龍>藤波>長州 3 ... 鶴田と天龍の対戦成績ってどうだったっけ? どうしても天龍がパワーボム2連発で勝った試合の印象が 強いんだけど、逆に鶴田が脳天を叩きつけるパワーボムで 藤浪 晋太郎(ふじなみ しんたろう - 阪神タイガース)の選手情報・プロフィール・成績。他では見られないプロ野球の詳しいデータを掲載。チーム成績、選手成績。 ドラディションの藤波辰爾(54)と新日本の長州力(56)が、シングルマッチでは11年ぶり、タッグマッチでは2年ぶりの対戦が現実味を帯びてきた。 全日本プロレスマットで行き詰まりを覚えた長州は「メンテナンスが必要だ」と藤波を恋しがり、藤波とでしか名勝負を作れなかった剛は20年以上にわたり藤波を追い続けた。あの前田日明でさえ「寄港する先がなかったUWFがある島にやっとたどり着き、無人島だと思ったら仲間がいた」と、藤波へ感謝の意を口にしたのだ。, ■「この試合を最後に、猪木は引退するのではないか?」 1981年6月、蔵前国技館において、期待の超新星レスラーが国内デビュー戦を行いました。 その男の名は「モスクワ五輪幻の金メダリスト」谷津嘉章。 今回は、谷津の日本プロレス史に残る悲惨なデビュー戦を当時の背景とともにご紹介します! 谷津嘉章とは? 藤波 辰爾(ふじなみ たつみ、1953年 12月28日 - )は、日本の男性 プロレスラー。 カートプロモーション所属 。 本名・旧リングネーム:藤波 辰巳(読み同じ)。大分県 東国東郡 武蔵町(のちの国東市)出身。 ニックネームは「ドラゴン」。 第77代nwa世界ヘビー級王者。 「試合の前には猪木さんが“負けたら引退”という報道があって、ファンもこの試合が大きな山場になると感じていたのでしょう。(中略)あとで映像を見たら、テレビカメラが会場の絵をずっと追っていくときに、お客さんの悲壮感まで伝わってくる。あれじゃあ、もし僕が勝っていたら暴動が起きてましたよ」(藤波) 全日本柔道選手権優勝7回(5連覇、2連覇)は山下泰裕に次ぐ歴代2位。 明治大学 経営学部経営学科卒業。 筑波大学 大学院人間総合科学研究科コーチング学専攻博士前期課程修了。 言うまでもなく、プロレスは「個人競技」ではなく「団体競技」である。対戦相手、レフェリー、はたまた観客を巻き込んで試合は作り上げられていく。, 選手はよく「アイツとはやりやすい」と口にするが、格闘技だとこれは火種になる。言わば、苦手意識がないことの表れであり、“くみしやすい相手”だとぶっちゃけてるのと一緒だ。それって、下に見てるってことじゃない! 11分34秒ドラゴンスリーパー 小島 長州 . 開幕戦で藤波・木村組と対戦し、長州が木村健吾にフォールを許すという大番狂わせ。 波乱の幕開けでした。 が、本当の波乱はシリーズ中盤にさしかかった11月19日に起こりました。 新間寿の我、未だ戦場に在り!<獅子の巻>』(ダイアプレス、2016年)p36, 『週刊プロレスSPECIAL 日本プロレス事件史 vol.3』P44(2014年、, 『週刊プロレスSPECIAL 日本プロレス事件史 vol.12』P8(2015年、, 『日本プロレス史の目撃者が語る真相! 長州力はオリンピックにも出場していた!引退前に出版された「さらば、長州力」は名言だらけ! 長州力は若い頃オリンピックにも出場していた!その実力は? 入場テーマソング「パワーホール」が流れると、会場に嵐のような大長州コールを巻き起こすプロレスラーの長州力。 ドラディションの藤波辰爾(54)と新日本の長州力(56)が、シングルマッチでは11年ぶり、タッグマッチでは2年ぶりの対戦が現実味を帯びてきた。 2011年08月01日 02:32に投稿されたエントリーのページです。 ひとつ前の投稿は「パンクラス大阪大会に外れなし!ベストバウト吉武x青山、鳥生1r裸絞め撃沈~好試合続出の7・31アゼリア大会」です。. 初開催から25年以上、四半世紀も続く新日プロ「真夏の祭典」 g1クライマックス。 今回は1991年の第1回大会、ダークホース 蝶野正洋の優勝と、g1開催がもたらした"意義"についてご紹介します! g1クライマックスが「画期的」だった理由 ネーミングは競馬好きで知られる坂口社長。 1981年6月、蔵前国技館において、期待の超新星レスラーが国内デビュー戦を行いました。 その男の名は「モスクワ五輪幻の金メダリスト」谷津嘉章。 今回は、谷津の日本プロレス史に残る悲惨なデビュー戦を当時の背景とともにご紹介します! 谷津嘉章とは? 永遠のライバル、藤波と長州。この2人の決着はついたのだろうか? 俺が思うに、対戦成績でも圧勝しているドラゴン! 現在社長のドラゴン!それに比べ現場監督の長州! 最後の対戦もドラゴンが勝っているので、最終的な決着はドラゴンの 圧勝だと思うが! 1984年2月3日に札幌が舞台と なった 「藤原テロ事件」 でした。 長州力さんがライバルの藤波辰爾さん と対戦への入場時間となりましたが 王者・藤波は、この頃35歳。プロレスラーとして脂が乗り切った、まぎれもない全盛期だ。一方、挑戦者・猪木は45歳。今では公然の事実だが糖尿病を患っており、しかも同年5月にはジョギング中の負傷で足の親指を骨折。“落日の闘魂”というフレーズはあまりにふさわしく、観客はある種の覚悟を持って会場の横浜文化体育館(猪木の地元は横浜)へ馳せ参じている。, しかし、試合が始まると、両者の動きは目にも止まらない。スピーディなロープワークを仕掛けたかと思いきや、じっくり展開されるグラウンドの攻防は新日本プロレスの原風景のよう。しかも、藤波はジャイアント・スイング、猪木はアルゼンチン・バックブリーカーと、決して普段は見せない秘技を引っ張り出してくる2人。プロレスラーとしての奥深さを感じずにいられない。 日本野球機構(npb)オフィシャルサイト。プロ野球12球団の試合日程・結果や予告先発、ドラフト会議をはじめ、事業・振興に関する情報を掲載。また、オールスター・ゲームや日本シリーズなど主催試合のチケット情報もご覧いただけます。 日本プロ野球(npb)の詳細データを提供しています。2012年度分からの全試合結果、個人別成績、コース別成績、条件別状況別成績、観客動員、セイバーメトリクス、選球眼指標等公開しています。 日本野球機構(npb)オフィシャルサイト。プロ野球12球団の試合日程・結果や予告先発、ドラフト会議をはじめ、事業・振興に関する情報を掲載。また、オールスター・ゲームや日本シリーズなど主催試合のチケット情報もご覧いただけます。 藤波 辰爾(ふじなみ たつみ、1953年12月28日 - )は、日本の男性プロレスラー。カートプロモーション所属[3]。本名・旧リングネーム:藤波 辰巳(読み同じ)。大分県東国東郡武蔵町(のちの国東市)出身。ニックネームは「ドラゴン」。, 第77代NWA世界ヘビー級王者。日本人2人目のWWE殿堂入りレスラー。海外武者修行時のリングネームは、アメリカではドクター・フジナミ、メキシコではドクトル・フヒナミおよびリング・フヒナミとしていた[4][5]。, 1953年12月28日、大分県国東郡に生まれる。中学時代は陸上競技を行っていた[6]。この頃にアントニオ猪木に憧れ、プロレスラーを目指す。, 中学卒業後、地元の自動車整備工場に就職したが、プロレスへの夢を断ち切れず、1970年に別府温泉へ湯治に来ていた同郷である日本プロレス所属のプロレスラー北沢幹之に直談判、そのまま巡業について行き日本プロレスに入門。入門同期には佐藤昭雄、キラー・カーンなどがいる。, 北沢幹之のはからいにより猪木の付き人となり1971年5月9日にデビュー。デビュー戦の相手は北沢が務めた。当時の猪木が「いつでもどこでも俺のことを見ている」と言うほど猪木につきっきりであり、猪木は妻の倍賞美津子より藤波の方が自分のことを分かってくれていると評していた。[7]。, 中学時代は家に帰ると夕食前に汁かけご飯をどんぶり3杯食べる大食漢であったが、プロレス入りした途端緊張と威圧感で食事が喉を通らなくなるなど苦難を経験した[6]。, アントニオ猪木が日本プロレスを除名された翌日の1971年12月14日、木戸修と共に日本プロレスを退団し、夜逃げ同然で日本プロレス事務所の近くの猪木後援会事務所に身を寄せる[8][9]。1972年、猪木が興した新日本プロレスに旗揚げより参加。3月6日に大田区体育館で行われた旗揚げ戦では第1試合に出場するもエル・フリオッソに敗退、3月16日の浜田広秋(後のグラン浜田)のデビュー戦で初勝利を挙げる[4]。以降、相次いでデビューした関川哲夫、荒川真、栗栖正伸、藤原喜明らを相手に勝利を重ね、若手のリーダー格となった[4]。, 1974年、若手の登龍門たるカール・ゴッチ杯を制し(決勝の相手は小沢正志、後のキラー・カーン)、翌1975年6月、初の海外修行で木戸修と共に西ドイツへ遠征[10]、グスタル・カイザーのプロモーションで対戦したホースト・ホフマンには子供扱いされたという[4]。その後アメリカへ渡り[10]、フロリダのカール・ゴッチのもとで再修行。木戸の帰国後、1976年よりドクター・フジナミのリングネームでジム・クロケット・ジュニア主宰のNWAミッドアトランティック地区をサーキット。ベビーフェイスのポジションで前座試合に出場し、ロニー・ガービン、ボリス・マレンコ、ジン・アンダーソン、ザ・モンゴルズ、ジャック・グレイ、ミシェル・デュボア、クラッシャー・ブラックウェル、ラリー・シャープ、ダグ・サマーズ、アンジェロ・ポッフォ、ラニー・ポッフォ、そしてランディ・ポッフォこと若手時代のランディ・サベージなどと対戦[11][12]。タッグマッチでは同世代のトニー・アトラスやラリー・ズビスコと組み、ダン・ミラー、レッド・バスチェン、ビル・ドロモなどベテラン選手のパートナーにも起用された[11][12]。その後、ドクトル・フヒナミとしてメキシコに転戦、当初はルード扱いだったが、後にテクニコに転向してからはリング・フヒナミと名乗った[4]。, 1978年1月23日、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンにてカルロス・ホセ・エストラーダをぶっつけ本番で放ったドラゴン・スープレックスで破り、WWWFジュニアヘビー級王座を獲得し[13]凱旋帰国。海外遠征でブレイクしたため、藤波は日本には帰りたくなかったという[10]。途中、1979年10月に剛竜馬にベルトを奪取されるも2日後に奪回しており、1981年10月にヘビー級転向のために返上するまで、通算52回に渡って同王座を防衛した[14]。, 1978年3月3日の凱旋帰国第一戦では、マスクド・カナディアン(ロディ・パイパー)を相手に同じくドラゴン・スープレックスで勝利。以降、ドラゴン・ロケットなど当時としては斬新だった飛び技、引き締まった肉体と端正なマスク、そしてゴッチ仕込みのテクニックで「ドラゴン・ブーム」を巻き起こし[14]、従来のプロレスファンに加えて女性や子供のファンも獲得、腰痛の悪化で低迷していたストロング小林を抜いて猪木と坂口征二に次ぐ新日本プロレスNo.3の座に就いた。, 同時に、剛、チャボ・ゲレロ、カネック、ダイナマイト・キッド、木村健吾などをライバルに、日本のプロレス界に「ジュニアヘビー級」というジャンルを定着させた[6][14]。WWFジュニアヘビー級王者として日本のみならず海外でも防衛戦を行い、ロサンゼルスでは素顔のロディ・パイパーをはじめスキップ・ヤングやトム・プリチャード、ニューヨークでは前王者エストラーダやジョニー・ロッズ、メキシコではレイ・メンドーサやエル・ソリタリオなどの挑戦を退けている[15]。1980年2月1日にはダブルタイトルマッチにてスティーブ・カーンを破り、NWAインターナショナル・ジュニアヘビー級王座を獲得[16]、ジュニアヘビー級の二冠王となった。同年4月には国際プロレスの阿修羅・原、1981年7月には当時のNWA世界ジュニアヘビー級王者レス・ソントンを相手にWWF王座の防衛に成功するなど[15]、名実ともにジュニアヘビー級の第一人者となった。, また、春に開催されていたMSGシリーズにも出場して、猪木や坂口をはじめ、アンドレ・ザ・ジャイアント、スタン・ハンセン、ダスティ・ローデスらスーパーヘビー級の大物外国人とも対戦[17][18]。公式リーグ戦ではニコリ・ボルコフ、バグジー・マグロー、ボビー・ダンカン、サージェント・スローターなど、体格差のある巨漢選手からクラッチ技でフォールを奪っている[19][20]。, 1981年10月にヘビー級転向のためジュニアヘビー級王座を返上。翌1982年1月より「飛龍十番勝負」が始まる。ボブ・バックランド、ハルク・ホーガン、アブドーラ・ザ・ブッチャー、ジェシー・ベンチュラ、ディック・マードックらと闘うも、十番を消化することなく、中途で終わることになった。, しかしながら、海外遠征中の同年8月30日、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンでジノ・ブリットを破りWWFインターナショナル・ヘビー級王座を獲得[21]。ヘビー級のチャンピオンベルトを手土産に凱旋帰国、9月21日に大阪府立体育館にてマスクド・スーパースターを逆さ押さえ込みで破り、初防衛に成功した。この一戦で新間寿が仕掛けたサプライズとして当時婚約中であった妻がリングに上がって観客から拍手を受けた[22]。, この年の10月、長州力との抗争が始まり、さらに長州率いる維新軍との軍団抗争で新日本に黄金期をもたらす。長州との一連のシングルマッチは「名勝負数え歌」と呼ばれ、1983年4月3日のWWFインターナショナル・ヘビー級タイトルマッチは同年のプロレス大賞ベストバウトを獲得した。同年のWWF遠征では、5月16日にロチェスターにてレイ・スティーブンス、翌17日にシラキュースにてザ・デストロイヤーと対戦し、それぞれ勝利を収めている[23]。, しかし、同年8月のタイガーマスクの引退、さらに翌年1984年にはUWF旗揚げによる前田日明らの離脱、年末の長州力ら維新軍団の新日本プロレス離脱、と新日本は冬の時代と呼ばれるようになる。一時は「藤波も離脱秒読み」と報道されたが藤波は残留を決めた(藤波が離脱していればその時点で新日本は潰れただろうと言われている)。, 残留を決めて以降は猪木、坂口、木村健吾、星野勘太郎らと共に新日本プロレスの低迷期を支え、1985年5月24日 木村健吾とのタッグにてWWFインターナショナル・タッグ王座を獲得。WWFインターのシングルとタッグの二冠に輝き、6月11日に東京体育館にてハルク・ホーガンのWWF世界ヘビー級王座に挑戦した(ホーガンが防衛)。インターナショナル・ヘビー級王座もカウボーイ・ボブ・オートンやアドリアン・アドニスなどを相手に防衛していたが、WWFとの業務提携終了に伴い、1985年10月末でWWFインターのシングルとタッグ両王座を返上。しかし12月12日のIWGPタッグリーグ優勝戦でタッグとはいえ師匠・猪木からドラゴン・スープレックスで初のフォール勝ちを達成。初代IWGPタッグ王座を木村健吾と獲得、その年の「プロレス大賞」でMVPを獲得した。, 1986年1月から前田らUWF勢が新日との業務提携により参戦。UWF勢のキックに新日勢は当初逃げ腰だったが藤波は真正面から受け止め、特に6月12日大阪城ホールIWGP公式リーグ戦での前田日明との試合は前田の厳しい攻めを(前田の大車輪キックで大流血になりながらも)受け止め名勝負を展開した(結果は両者KOによる引き分け)。この試合はこの年のプロレス大賞ベストバウトを獲得し、試合後前田は「無人島に流れ着いたと思ったら仲間がいた。そしてその仲間とこれから大きな国を作っていく...そんな心境です」と藤波に賛辞を送った。だが藤波の額にはその時の傷が残り、現在も消えずに残っている。, 1987年4月には長州力らジャパン・プロ勢が新日にUターン。新日本プロレスは猪木、坂口、マサ斎藤らナウ・リーダーと藤波、長州、前田らニュー・リーダーの闘いで人気を博すも、その後の前田の長州蹴撃による離脱、二度に渡るファンの暴動事件などで再び新日の人気は陰りを見せ始めた。, 1988年4月22日、沖縄県立奥武山公園体育館で、いつまでもメインを張り続け後進に譲ろうとしない猪木に対して、自らの前髪を切って現状改革を訴える[24]。この行動は前年に天龍源一郎が全日本プロレスで起こした天龍革命に対して「飛龍革命」と呼ばれたが、反権力的な長州の維新、天龍の革命と比べて体制側に属する藤波の革命についてのファンの支持はもう一つで、前記2者に比べるとプロレス史には(ネタとしてはともかく)残らず、尻すぼみの結果となった。, 5月8日、有明コロシアムでIWGPヘビー級王座をビッグバン・ベイダーとの王座決定戦の末に獲得。, 8月8日には、猪木が挑戦者として藤波に挑む形で、横浜文化体育館でIWGPヘビー級の防衛戦を行い、60分フルタイムの名勝負の末引き分ける。試合後、猪木が藤波の腰にIWGPのベルトを巻いた。, 以後、新日本プロレスのエースとなり、10月15日にアメリカのオレゴン州ポートランドにてザ・グラップラーからNWAパシフィック・ノースウエスト・ヘビー級王座を[25]、12月9日には後楽園ホールでケリー・フォン・エリックからWCWA世界ヘビー級王座を奪取し[26]、日米に渡る三冠王となった(後に両王座は返上)。これと同時期に、IWGPヘビー級のベルトを携えてアメリカなどを転戦、海外でもIWGPヘビー級王座の防衛戦を行っている(当時、猪木が提唱していた「世界戦略」に対して、「藤波流世界戦略」とも呼ばれた)。, 1989年6月22日、長野県・佐久市総合体育館においてビッグバン・ベイダーとのシングルマッチで腰を負傷。7月3日、青森市民体育館を最後に、椎間板ヘルニアで1年3か月間に及ぶ長期欠場となった。その間、帝拳ジムでボクシングの練習にも取り組んだ。当時のプロレス界では興業ポスターに掲載されている選手は欠場が許されず、もし欠場したら会社側がプロモーターからの値引きに応じなければならなかったため、これが原因で腰の負傷が悪化したと本人は振り返っている。また、飛龍革命で散々揉めた猪木が自分の都合で選挙活動に藤波を借り出したことなども、本人は後に苦笑いしながら振り返っている[24]。ヘルニアは酷い時になるとほぼ寝たきりになるほど悪化。正確には、立った状態から寝床に付く行為もできないほど痛みが甚だしかったため、ソファーの一番柔らかいところにそっと腰を掛けて夜はそこで毛布を掛けて寝ていたという。痛みで意識がもうろうとしていた時が睡眠時間であったというほど睡眠にも障害が出るほどであり、数m先のトイレに行くのにも夫人の力を借りざるを得なかった。その状態が半年ほど続いたため、このときについて本人は自伝に「自殺を考えるほどであった」と記述している。その痛みは、最終的に筋肉を鍛え直すリハビリで克服しており、それを行ってから2ヶ月で復活したことについては本人も「本当に信じられない」と驚いていた[24]。, 1990年9月30日、神奈川県・横浜アリーナにおいて越中詩郎とのエキシビション・マッチで復帰。リングネームを「藤波辰巳」から「藤波辰爾」へ改名。, この頃、プロレス界での部屋別制度を提唱、「ドラゴンボンバーズ」を結成(メンバーは越中、獣神サンダー・ライガー、飯塚孝之、ブラック・キャット、南海龍、ワイリー・テイラー)したが、軌道に乗ることはなかった。, 翌1991年3月21日、東京ドームでリック・フレアーをグラウンド・コブラで破りNWA世界ヘビー級王者となったが、WCW側からのクレームもあり正式なNWA世界王者とカウントされるかどうかは議論が分かれていた。ただしNWAの公式サイトには、歴代チャンピオンとして藤波の名前がある[27]。また、後にWWE殿堂入りした際、WWEから「元NWA世界ヘビー級王者」として紹介され、WCWを買収したWWEから王座戴冠の事実を追認される形になった[28]。本人はフレアー戦でベルトを奪取していなければWWE殿堂入りは無かったかもしれないと後に2017年のインタビューで振り返っている[24]。, 1992年7月11日、オーストリアのグラーツにてボブ・オートン・ジュニアを破り、オットー・ワンツ主宰のキャッチ・レスリング・アソシエーションが認定するCWAインターコンチネンタル・ヘビー級王座を獲得[29]。, その年1月から参戦し、新日勢を連破していた天龍源一郎と9月26日大阪城ホールで初対決。セコンドの馳の介入にクレームを付ける天龍の虚をついてグラウンド・コブラで勝利した。, 1994年4月4日、広島グリーンアリーナで橋本真也のIWGPヘビー級王座に挑戦。橋本の爆殺キックで蹴りまくられながらも逆転のグラウンド・コブラで王座を奪取。, 1995年10月27日、クラシックなプロ・レスリングを復活させるため独立興行「無我」を旗揚げ。イギリスのビリー・ライレージムと提携。, 1998年4月4日の猪木引退・東京ドーム興行で佐々木健介を数年ぶりに見せるジャーマン・スープレックスで破りIWGPヘビー級王座を獲得。師の引退に花を添えた。, 1999年2月にジャンボ鶴田が引退し、翌年死去した。藤波はかねてから「ジャンボ鶴田選手と1回戦ってみたかった」と公言している。かつて、ジャイアント馬場と猪木の対戦が望まれた時期、猪木は何度も馬場に対戦を望んだが、馬場は「僕達の旬は過ぎているから」と拒否し、代わりにお互いの団体の次期エースである鶴田と藤波の対戦を申し出たり、当時全日本プロレスに参加権があって新日本プロレスには認められていなかったNWA世界ヘビー級のベルトの挑戦権を藤波に与えてもいい、などと発言したこともあった。だが、猪木は馬場との対戦に拘り続け、そして鶴田の死去もあり、ついに藤波は鶴田と対戦することはできなかった。, 1999年に坂口征二の後を継ぎ新日本プロレス社長に就任。しかし在任中に橋本真也、武藤敬司、長州力、佐々木健介など主力選手の退団が相次ぎ、折からの総合格闘技ブームや新設されたNOAHの盛況もあって苦しい経営を迫られた。また、会社の経営状況を把握出来ていなかったり[30]発言の趣旨が二転三転することが多かったり[31]と、藤波自身も経営者として問題があった。優柔不断な面があったことから「こんにゃく社長」とも称された。, 2003年から社長業の多忙と胆石の治療で長期欠場に入り、近い将来の引退を宣言をする。しかし胆石は手術で完治し、結局2004年に社長を辞任、副会長に就任し、2005年3月26日には2年3か月ぶりに復帰し、引退カウントダウンを撤回し、現役にこだわるようになる。, 同5月のドーム大会でジャンボ鶴田の付き人を務めたことのあるNOAHの三沢光晴とタッグを組み、「楽しかった。次は三沢選手と戦いたい」と話した。また、同年のG1 CLIMAXにも久々に出場した。川田利明との初対決が実現する(敗れる)。試合後に川田から握手をし、川田は「試合後の握手は嫌いだが、レスラーになったきっかけの一人であるから」とコメントを残す。, 2006年6月30日付けで新日本プロレスを退団。その際に社員に挨拶に回ったが、ことごとく無視された、とインタビューで当時の様子を語った[24]。, 元新日本プロレスで藤波の愛弟子である西村修と田中秀和リングアナウンサーの新団体「無我ワールド・プロレスリング」の旗揚げ戦で第1試合に出場した。その後、無我の代表取締役に就任。2007年1月28日には約30年ぶりにグラン浜田と対戦した。6月1日師匠であるアントニオ猪木と1年振りに会談したことが明らかとなり、その席で猪木が旗揚げするイノキ・ゲノム・フェデレーションへの協力を表明した。9月9日、NOAH日本武道館で、三沢との夢のタッグ戦が実現(三沢、潮崎vs藤波、西村)。パートナーの西村が潮崎に足四の字で勝利。, しかし2008年、団体名を『ドラディション』に変更した。西村が無我の商標権を持ったまま団体を離脱したのが原因。, ドラディションと並行しつつ、2010年10月20日、長州力、初代タイガーマスクと共に新イベント「レジェンド・ザ・プロレスリング」を2011年1月10日に後楽園ホールで旗揚げすることを発表した。また、藤波と長州の1997年8月10日以来となる一騎討ちも決まった[32]。, 2012年4月20日、「藤波辰爾デビュー40周年・ファイナル 〜40th. 『週刊実話』にて「俺の名勝負」と題したレジェンドレスラーのインタビューシリーズが連載中。第1回の天龍源一郎に続き、9月7日号掲載の第2回にゲストとして登場したのは藤波辰爾だ。, 藤波は“名勝負製造機”である。挙げるとキリがない。「名勝負数え唄」と呼ばれた長州力との抗争を筆頭に、前述の前田日明戦、剛竜馬戦、もしくはチャボ・ゲレロ戦辺りも忘れ難い。, さて、本人がベストバウトに挙げたのはどの試合か? それは、1988年8月8日、横浜文化体育館で行われたアントニオ猪木との試合。60分フルタイムを闘い抜いたIWGPヘビー級王座の防衛戦であった。 長州力はオリンピックにも出場していた!引退前に出版された「さらば、長州力」は名言だらけ! 長州力は若い頃オリンピックにも出場していた!その実力は? 入場テーマソング「パワーホール」が流れると、会場に嵐のような大長州コールを巻き起こすプロレスラーの長州力。 在日韓国人2世として生まれ、2016年に日本へ帰化した 。 韓国名は郭 光雄(かく こうゆう、クァク・クァンウン、 곽광웅 )だった。 2.1986.6.12大阪 IWGP決定リーグ戦 vs前田日明 日本プロ野球(npb)の詳細データを提供しています。2012年度分からの全試合結果、個人別成績、コース別成績、条件別状況別成績、観客動員、セイバーメトリクス、選球眼指標等公開しています。 猪木、藤波、長州。日プロでいえば、馬場、猪木、大木。大木が猪木に噛みつくようなものか。 ただ、長州が藤波に噛みついたのは、わかりやすい「対戦成績」がある。ワールドリーグ戦などの直接対決で長州は藤波に1度も勝っていないのだ。

藤波 長州 対戦成績

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